異文化から学ぶ「終活」②

前回(異文化から学ぶ「終活」①)、欧米ではキリスト教徒が多いことから、葬儀の形に頭を悩ませることは少ないと述べました。
また、信仰を持つことで得られる——日常的に死について考える習慣——から学ぶべきところが多いとも述べました。
ですが、信仰の有無を問わず、現代に生きるうえで深く考えざるを得ない問題が、その手前に存在します。

今回は、「医療と死」について考えてみたいと思います。現代においては、医療について考えることは、死を考えることから切っても切れません。

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医療と死

欧州のいくつかの国やアメリカのいくつかの州では、「積極的」安楽死が認められています。これは、死を目的とした医療行為を受けることを差しますが、「積極的」安楽死を許可する基準は国によって大きく異なります。

「消極的」安楽死 – 「尊厳死」

日本では「尊厳死」という言葉で「消極的」安楽死が考えられています。これは、可能だからという理由で延命のための医療を施すのではなく、個人の尊厳を尊重し、そのような意志があるのならば、延命のための医療行為を行わない、という考え方です。
「尊厳死」はまだ立法化されていない考え方ですが、「終活」という考えが一般化されてきたことに伴い、議論が必要となってきた医療行為と言えます。
言い方を変えれば、現在の日本では、もう延命の処置はいらないという意志があってもそれが反映されないということです。
このことから自分の死を考えることも、「終活」を考えるひとつのきっかけになるのではないでしょうか。

ターミナルケア

「尊厳死」という言葉の登場に伴い、「ターミナルケア」と呼ばれる医療の形も一般化してきました。これは、簡単に述べれば、患者の終末期における医療行為と看護のことを指します。
ただ、「尊厳死」という考え方について、まだ深い議論、あるいは具体的な展開が見られない現在、「ターミナルケア」の定義も曖昧です。さらに、患者すべてがそれぞれその人だけの死への考えを持っているわけですから、「こういった場合、こうすれば良い」というような類型は無く、「ターミナルケア」に従事する医療者たちもまた、日々、悩み、学びながら患者と向き合っているのでしょう。

こうした状況を鮮明に映し出している短編ドキュメンタリー映画があるのでご紹介します。
アメリカ、カリフォルニア州にあるとある病院での終末医療の現場を映した、ダン・クラウス監督の『最期の祈り』という作品です。
カリフォルニア州では、2015年に「消極的」安楽死、つまり、日本で言う「尊厳死」が認められています。

24分と短い作品ですが、患者、近親者、医療従事者のそれぞれの思惑が交錯し、みな常に厳しい判断を迫られている姿が胸に迫ります。また、こうした状況において、信仰を持つことがどう作用するのかも、時折見て取れました。
なによりも深く考えさせられたのは、終末期に差し掛かった患者は、近親者と医療従事者に、自身の考えを適切に伝えることが難しいという現実です。だからこそ、それぞれの立場からの善意は交錯しそれぞれに迷いが生じてしまう。
このことを完全に解決する方法はないのかもしれませんが、健全な状態のうちに——自分がもしもそのような状況になったらこうしたい——、そのことを近しい人たちに伝えておくことは、とても大切な「終活」だと感じられました。

自分の死は、自分だけの死ではない

「可能な限り生き、その時を待つ」のか、あるいは「苦しみと、その姿を親近者に見せる時間を減らし、いろいろな負担を減らす」のか。
どちらが自分にとっての死として理想的か。
「終活」は、それ以降——自分が死んだ後——を考えるためのものでもあります。したがって、自身の最期をゴールと捉えるべきではないのかもしれません。
ですが、自身の死という大きな節目をイメージし、そこから逆算することで、「終活」への具体的な取り組み方が見えてくることもあるでしょう。