遺影について

仏式の葬儀に参列し、焼香を行う時や弔辞を読む際など、目線はどこを向いているでしょうか。
大抵の場合、それは遺影に向けられていると思います。
遺影の下には棺があり、そこには遺体が安置されていますが、それでもわたしたちは遺影を見て故人を想っています。

もしも遺影がなかった場合、私たちは葬儀の最中、何を見つめれば良いのでしょう。

今回は、そうした疑問から、遺影について考えてみたいと思います。

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遺影の歴史

現在の遺影——故人の肖像写真——が誕生したのは、当然ですが写真技術が普及してからのことです。
その誕生について仔細な記録は残されていませんが、東京は品川区にある小島写真館では、創業の大正11年(1922年)から遺影撮影を手がけており、少なくともその頃から一般化されていったと考えることができそうです。

もっとも、公人においては、それ以前にも葬儀の過程を写真集としたものが残されていますし、さらにさかのぼると、僅かですが、葬列の絵巻物も残されています。
ただ、現在の形の遺影となると、おおよそ100年ほどの歴史しか無いと言えるでしょう。

遺影を見つめない葬儀

映画などで、海外の葬儀の様子を目にしたことがあるかと思います。
その中でも、土葬が依然多いアメリカの映画などでは、埋葬のために掘られた穴に棺とともに遺体が納められ、その周囲を参列者が取り囲んでいる光景が描かれることが多いです。
あの光景には遺影は登場しません。
では、参列者はどこを見ているでしょうか。
土葬の多いアメリカでは遺体保存技術が進んでおり、埋葬の寸前においても遺体を前に故人を偲ぶことが多く、参列者は棺の中の遺体を見ています。したがって、遺影を必要とはしないのです。

日本においては、写真技術が浸透する依然の江戸時代、禅宗の広まりとともに位牌の文化が定着しました。
おそらく、当時のひとびとは葬儀において、位牌を故人の代わりとして見ていたのではないでしょうか。

見つめるということ

ここまで、繰り返し「見る/見つめる」という言葉を用いてきました。
このことは、形式を問わず、葬儀において象徴的なことだと思えたからです。
遺族や参列者にとっては死はまだ体験していないことであり、霊魂といった概念を知りつつも、弔う対象が視線の先にないことは不便なことだったのでしょう。
生前は、故人となった本人を見ることができましたが、葬儀を経てその肉体は失われます。その際、失われる肉体の代わりとなる視線の対象を、遺族や参列者は葬儀を通じて得ることになります。

遺影の多くは、葬儀の準備の際、慌てて生前の写真から選ばれることが多いです。そうした経験からか、昨今では「終活」の一部として事前に準備しておくことも珍しくなくなりました。
確かに、準備しておくことで残された遺族が慌てることや悩むことは減るでしょう。また、どのような姿を自分の死後のカタチとして遺すかを選べることも有意義です。
ですが、遺影を見つめるのは残されたひとたちです。
彼らがそれを遺影として選ぶ過程や、その過程において話される想い出話なども、遺影のもたらす効果のひとつと言えるのではないでしょうか。

その意味を考えた時、あえて準備をしない、という選択肢もあり得るのかもしれません。