異文化から学ぶ「終活」⑤

以前、「「自分の死」という考え方の誕生」という記事において、「死」という現象を「自分の死」——つまり「わたしの死」とも言い換えられる、一人称の視座からの「死」——と人々が捉えるに至った経緯について述べました。
このことが、望まれていたことなのか否かは別にして、いまの日本という国が正面から向き合わざるを得ない課題であることは、高齢化や「終活」への意識の高まりという反応から見ても明らかです。

「自分の死」という考え方の誕生」において、

延命措置や、脳死、あるいは死後の臓器移植について考えざるを得ない状況が、医療の進歩によって我々にもたらされたがゆえに、わたしたちは「自分の死」を、個人的な理想や思想の範疇ではなく、社会的なこととして考える必要に迫られたのがその原因でしょう。
それは、アメリカにおいては1970年代、日本においては1990年代に浮上してきた問題です。

と述べました。

このことから、この課題に取り組むうえでアメリカをパラダイムとすることは有益に思えます。
(やや余談となりますが、日本が消費社会化していく過程や、「郊外」という概念を生み出す過程もまた、20年から30年以前のアメリカを追いかけた形となっており、このことはこの話題とは無関係ではないと考えられます)

ですが、現状のアメリカは「異文化から学ぶ「終活」②」において述べた、「医療と死」の問題の渦中であり、また、宗教の違いがあるため、模範とするには心許ない。
そこで、今回は、「自分の死」という考え方から離れた文化背景を持つスウェーデンの死生観に学びを得たいと思います。

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世界トップレベルの福祉制度

スウェーデンの消費税は25%と大変高いです。
その代わり、教育費は大学まで含めてすべて無料であり、18歳以下は無料で医療を受けられ、また、国や自治体の負担によって介護を受けることができます。
これは、ある意味「自分の死」という考え方の真逆であり、「すべての人の死」を国家単位で考えることで、「自分の死」と「他人の死」を社会的責任という視点から共有しようとするものです。

結果、スウェーデンにおいては、いわゆる「寝たきりの老人」が大変少ないです。それは、食生活などの健康管理の意識が高いからではなく、単純に行き届いた介護をみなが受けられことが理由です。

また、ターミナルケアも先進的で、無理な治療や延命ではなく、いかにその時の「生」と向き合うかに重きを置かれた介護が行われているそうです。
このような優れた介護を、本人はもちろん、家族にも経済的負担がかからない形で成していることから、いわゆる「寝たきりの老人」を生み出していない——、「死」の前後においても、様々な社会的、経済的問題に翻弄されてしまう「自分の死」を課題とする日本からすれば、ひとつの目指すべき形と言えるのではないでしょうか。

「みんなの終活」という可能性

今後、日本の「終活」が多様化していく中で、「個人の終活」ではなく、「みんなの終活」とも呼べる制度や形態が生まれ、それが選択肢のひとつとなれば、それはより多くの可能性を持った「終活」になるのではないかと、スウェーデンの現状から筆者は考えました。
ですが、それはまだ先の話でしょう。

ただ、いままさに「終活」に取り組むひとびとが、スウェーデンの事例からなにも学べないわけではないとも思います。
確かにいまこの国で向き合わなければならないのは「自分の死」でしかないのかもしれません。
ですが、「終活」においてなにか行き詰まった時や迷った時——いちど大きな視点に立ち返って「死」を見つめることで、解決の糸口を見いだせるかもしれない——そんな可能性を、スウェーデンの福祉制度は示しています。