死を迎えていない人たちのための葬儀

前回、告別式のはじまりについて述べました。
それは、中江兆民が、当時の装飾過多となっていた葬儀のカタチに疑問を呈するかのようなシンプルな葬儀を遺言とし、その結果、その遺言と、しかし大きな存在であった兆民を儀礼的に弔いたい人々の間に挟まれた遺族と友人が生み出した、いわば、偶然の産物だったわけです。

幸運にも生まれた儀礼のカタチ

その偶然は、「死のカタチ」をデザインしたい兆民の想いと、その想いを尊重したいものの、一筋縄にはいかなかった死を迎えていない人たちの葛藤によって起こり、結果的に後世に残る儀礼を生み出すに至りましたが、この結果は——運の良かったもの——と捉えるのが良いのではないかと筆者は感じています。

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骨葬

「骨葬」というカタチの葬儀があります。
これは、火葬後に遺骨で行う葬儀ですが、骨葬が行われる代表的な地域として、東北の漁師町や、北海道の一部などが挙げられます。
たとえば漁師がわかり良いですが、遠方の海に出ている人たちは、突然の葬儀には参加できません。かといって、遺体をずっと置いておくわけにはいかない。そうした理由から、葬儀の前に火葬をおこなう「骨葬」というカタチを取るようになったと言われています。
また、函館では、「函館大火」と呼ばれる、犠牲者を多く出した大規模火災が「骨葬」のはじまりではないかとも言われているそうです。

このように、「骨葬」は故人の遺志ではなく、死を迎えていない人たちの都合によって生まれた葬儀のカタチです。
葬儀というものは、どうあろうとも、死を迎えていない人たちのためのものなのだと、あらためて考えさせられます。

「終活」をどの目線で捉えるか

あまり知られることではありませんが、東日本大震災の被害によって、被災地では約2000人の方が土葬を余儀なくされました。
亡くなられた方の中には、少なからず自身の葬儀の希望を言い遺していた人もいたでしょう。こうした時、おそらく自身も被災者であった遺族の方達の心痛、心労は計り知れないものがあります。

もちろん、いかなる場合にも対応した「終活」など不可能なことです。
ただ、「残されたひとたち」を慮り行った準備が、万が一でもその逆の結果を生み出してしまうことがあるとすれば、それは悲しいことです。
昨今の「終活」においては、多様な選択肢、あたらしい考え方などが続々と生まれています。
こうした情報と向かい合うための考えの軸として、いついかなる時も、葬儀は「死を迎えていない人たち」のためのものだというふうに捉えておくことは、ひとつ有効な手段かもしれません。