通夜のこと

今後、葬儀の内容が合理化、現代化してゆく中で、いちばんはじめに取り除かれるの時間が通夜でしょう。
実際、「直葬」と呼ばれる、通夜および告別式を執行わない葬儀は、さほど珍しいことではなくなってきました。

何もしない時間

そもそも通夜とはなんでしょうか。
文字通り、夜を通すという意味であり、何か特別なことを行うのではなく、その意義は故人とともに過ごすことにあります。生者から死者への移行、あるいは肉体と魂の分離のために必要な時間だという背景からか、「寝ずの番」という言い方もあります。また、そうした移行の時間であるがゆえに、遺体の上に魔除けとして刃物を置く風習もあります。
地域によっては「夜伽(よとぎ)」とも呼ばれ、呼び名は違えど様々な地域で行われている葬儀の形です。

葬儀は執り行いが突然決まる儀式ですから、慌ただしく感じられる時間が多いです。
そうした中で「何もしない時間」として設けられる通夜は、夜と、慌ただしさとの対比から感じられる静けさ、またその長さから、葬儀の社会的側面からやや解放され、葬儀の中でもっとも故人と向かいあうことができる時間のひとつにも思えます。

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何もしない時間が生み出す豊穣

実際、「通夜」のそうした時間に感じ入ることは多いようで、文学作品などでは「通夜」をテーマとしたものも少なくありません。

たとえば、中島らもの『寝ずの番』。
これは、上方落語家であった笑福亭松鶴の通夜をモデルとしているといわれ、実際にその葬儀に参列した噺家が「我々の口にしたエピソード」だとも語っています。故人が噺家であり、そこに集まるのがその弟子であるがゆえに、悲喜こもごも、笑いと粋の行き交う短編小説です。2006年に映画化もされています。

最近の作品では、2016年、第154回芥川賞を受賞した、滝口悠生『死んでいない者』も、通夜を扱った小説です。
こちらの通夜に集まるのは、三世代の親族総勢30余名。一人の人間の死だけを理由に、世代も考え方も様々な多数の人間が一同に介す状況というのは、さながら世の中の縮図であり、こと通夜だけが果たし得る時間のように思えます。
また、表題はダブルミーニングに感じられ、つまり「(まだ)死んで(は)いないもの」と「死んで(しまい、もうそこには)いない者」。通夜に集ったそれぞれの「いま」の話、故人の思い出話、そうしたものがない交ぜとなり、生と死の境界が曖昧となってゆくような筆致は、まさに通夜の持つ「生者から死者への移行、あるいは肉体と魂の分離の時間」という特性を表現しているように感じられました。

無駄な時間が作り出す故人の肖像

「通夜」という儀礼が本当に必要なものなのかどうかといえば、その性質が「何か特別なことを行うのではない時間」であるがゆえに、少々悩ましくもあります。
ただ、そうした時間だけが刻むことのできる強い記憶もそこにはあるでしょう。
自分自身の死に際し、通夜で親しいひとたちがそのような時間を過ごしてくれれば幸福なことですが、自分でもてなすこともできないため、そればかりはどうなるかわかりません。それぞれ多忙である中、そんな時間を作ってもらうことを遠慮するのも至極当然の考えに思えます。

一体、どちらが良いのか。
できることならば、その時に「(まだ)死んで(は)いないもの」に選択を任せたいところですが、それぞれの環境もあってのことです。
本稿では、筆者の考えを多く含んでしまいました。しかし、「終活」にまつわる様々な選択において、「無駄である」、「あえて決めない」ということを肯定的に捉えるのもまたひとつの遺志となるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。