セレンディピティ

私事で恐縮ですが、筆者はこのところ、何度か「死と色」についての記事執筆を試み、その度に頓挫してしまっていました。

そもそもの着想は、喪服、白装束、仏旗、タルチョー(チベットの祈祷旗)など、宗教や死には色が重要な意味を持つものが多いので、それについて考えてみようと思い立ったことにあります。
ところが、どれに関して調べても曖昧な答えにしかたどり着けず、悩むうちに「色とは何か」から問い直す必要に駆られてしまい、泣く泣く諦るに至りました。

残念ながら「死と色」についての記事は先送りになりますが、そんな中、これまで考えてこなかった「色」の意味について興味を持つ機会を得ました。
このように、ある目的に向かう道すがら、目的とは別の発見などを偶然得ることを「セレンディピティ」といいます。

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今回は、「セレンディピティ」について考えてみたいと思います。

セレンディピティ

セレンディピティに、適当な日本語訳はありません。
著名な精神学医である中井久夫は「徴候的知」と訳していますが、その文字を見てもピンとこないのではないでしょうか?

意味合いとしては、先ほど述べたように「ある目的に向かう道すがら、目的とは別の発見などを偶然得ること」を指します。
考えてみれば、「セレンディピティ」を得ることは珍しくありません。

たとえば、本来の目的を買い物とすれば、出先で会いたかった知人と鉢合わせることも「セレンディピティ」と言えます。
ですが、これは個人的な狭義となってしまいますが、「本来の目的」に沿って行動していなければ知ることはなかっただろう発見にこそ、「セレンディピティ」の価値はあるように思います。

先の例でいえば、「会いたかった知人」と会うことは、別の機会で達成する可能性のあった目標でしょう。では以下のようなものはどうでしょうか。

同じく本来の目的を買い物とした時、うっかりと店頭で茶碗を割ってしまいます。仕方なく買い取ったものの、もったいないので自分で修理をします。それをきっかけに、陶器に興味を抱き、陶芸を始める。

この場合、不幸な出来事が、「思いもよらない」新たな関心に結びつきました。
筆者が今回、この「思いもよらない」新たな関心を得る、というセレンディピティについて語ろうと思ったのは、「終活」にはそうした「セレンディピティ」を得る可能性に充ちていると感じたからです。

終活のセレンディピティ

筆者の「色への関心」などはまさにそうですが、異文化を知ることで異国に興味を持ったり、新たな出会いがあったりと、「終活」には「思いもよらない」ことを得る機会が豊富にあります。
それは「死」を考えることが、反転して「生」を考えることになったり、「死」ほど根源的なものはないため、多種多様なことに触れる機会が多いからと言えるでしょう。

ただただ、「死への準備」をするだけの「終活」ではもったいない。
その中で「思いもよらない」出会いを得て、よりいまの「生」を満喫できることにつながれば、それはとても素敵なことではないでしょうか。

そうした、「思いもよらない出会い」は日本語にないため、なかなか言葉で意識することが難しいです。
今回、「セレンディピティ」という言葉をご紹介したのは、言葉で意識することが難しいため、これまでこぼれ落ちてしまっていた偶然のおどろきを、しっかりと手にする機会となればと考えてのことでした。

この記事もまた、みなさんの「セレンディピティ」になれば幸いです。