死を想う難しさ

今回は、エッセイのような、かつとりとめのない話になってしまうことを、はじめにお断りいたします。
はじめからわかっていたのですが、死を想う難しさについて考えることは、とても難しいことでした。

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生命の危機

出し抜けな質問になってしまいますが、みなさんは「死にそう」になったことはありますか?
実際に生命の危機を迎えた、というよりも、本気で「死ぬ」と思ったことがあるか、と言ったほうが良いでしょうか。そうした経験は人を大きく変えます。

「死」と比べるとスケールの小さな話になってしまいますが、若い頃、大変健康な友人がちょっとした頭痛で大騒ぎしていたことがありました。頭が痛いなどということは初めてだと恐れおののいていたのです。
快方後に問うと、数日寝不足が続いていたとのことでした。
普段、まったく体に異変が無いひとは、そんな小さなことでも狼狽してしまうのか、と驚きました。

「終活」をおこなう大抵の方は、体のちょっとした「異変」など日常のことだと思います。そうした状態に慣れると、まさかそんなことで死ぬとは思わないため、別段騒ぎ立てることもないでしょう。
大変健康だった友人も年を重ね、人並みに体のちょっとした「異変」に慣れていきました。

では、どこからが大変な「異変」なのか? と問われると、これは難しい問題です。

死を想え!と言われても…

そうした時、本気で「死ぬ」と思ったことがある方は、信頼性の高い比較対象を持っていると言えるでしょう。
これは「ちょっとした」ことではないぞ、と判断できるような経験を。

以前、「メメント・モリ」という記事でも触れましたが、「メメント・モリ」=「死を忘れるな」「死を想え」という意味のラテン語は、日常に埋もれ、まるでとおくのもののように「死」を想うことへの警句です。

とはいえ、慣れてしまうのがひとというもの。そして忘れてもしまいます。
仮に、本気で「死ぬ」と思ったことが過去にあったひとも、それを次に思い出すのは、次に本気で「死ぬ」と思った時かもしれません。

それは、「終活」が難しいものとなってしまう大きな原因のひとつと言えるでしょう。
防災グッズを備えておかなくては、と思いながら、ついつい先延ばしにしてしまう。
行くあてのない旅行の準備などひとはしません。

だからこそ「メメント・モリ」という警句はいまも存在するのですが、それは同時に、いまもなお人々は先延ばしにし、そして忘れてしまうことを意味しています。

では、そのためになにをすれば良いのか?

答えはない

おそらくその答えは、日常の中にある「小さな死のかけら」とでも言うべき事象、たとえば植物の変化、食事をするということ、眠らなければ疲れる、そんな当たり前のことを、もっと注視することにあるでしょう。

それができれば苦労しない……、というような、堂々めぐりの話となってしまいますが、それだけ死を想うこととは難しいことです。

「終活」に取り組む際、たびたび覚束ない感覚にとらわれ、身が入らないこともあるでしょう。
筆者自身も、日々こうして「終活」にまつわる記事を執筆しながら、つい自身のそれについては対岸の火事を見るような気分になってしまうことがあります。

こうした問題は、きっと死を迎えるその時までまとわりつくのでしょう。
なにか気の利いた答えを用意できればよかったのですが、こればかりは難しい問題でした。

きっと、誰にもわからないことなのでしょう……。
だからこそ孤独に、時にはともに、「終活」という言葉を頼りに、その足取りを進めて行ければと思います。