お母さんのお弁当

終活はこれから旅立つ方の視点が多いですが、見送る側の気持ちも理解しておく必要もあります。
このカテゴリでは見送る側の気持ちを、様々な故人とのエピソードから覗いてみます。

今回はその第2回目。神奈川県N.Hさんのエピソードです。

 

 

「あなたのお母さんは、来年の桜は見れないでしょう」

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それは、私が高校二年生の時です。夏の暑い夜だったことを覚えています。
家の電話が鳴った直後に、多少の嫌な予感はしていましたが、直接、母の主治医からその言葉を聞いてしまうと、さすがに動揺してしまいました。

一瞬の静寂。
家には私以外誰もおらず、ついさっきつけたテレビの音だけが部屋に響いていました。
そして、ふと我に返った私は、その主治医の先生へ受話器に向かって思わず声を荒げてしまいました。

「あなた医者でしょう!?医者は患者の命を救うことが仕事でしょう!!あきらめないでくださいよ!!どうにかししてください!!」
「もう君のお母さんが苦しむ姿を見たくないんだよ!!!」

感情のこもった主治医の返事を聞いて、私は抗がん剤で髪の毛は抜け落ち、副作用に苦しむ母の姿を鮮明に思い出しました。
それからの会話は全く覚えていません。それこそ、記憶喪失にでもなったかのように、それからの主治医との会話は、すっぽりと私の記憶から抜け落ちてしまいました。

受話器を置き、呆然としている私の耳に、テレビでながれているバラエティ番組の笑い声がとても不快に感じたのを覚えています。

 

私の母親は、昔ながらの「夫の後ろを一歩引いて歩く」ような、亭主関白の妻を全力で体現したような人でした。常に父の顔を立て、父と母が喧嘩している場面など、ただの一度も見たことはありません。

子供の私にとって、母は理想の妻であり、理想の母でもありました。
そのため、周囲からはよく『マザコン』とからかわれたものです。

 

そんな私も中学生、高校生になり、そうなると当然、母親からは親離れするものですし、反抗期というものもやってくるわけです。
母は私が六歳くらいの頃、病院から乳癌と診断されました。
同時に、余命も宣告されましたが、癌に侵された右側の乳房を手術により切除し、驚くことにある程度完治してしまいました。しかし、入退院と定期的な通院はずっと繰り返していましたが。

「来週、一週間くらい病院に入院するから」

子供の頃、小学生くらいまでは、その母からの言葉が嫌で嫌でしょうがなく、母の気持ちも知らずに思わず言ってましいました。

「えー!!また!?これで何回目!!?」
「そんなこと言わないで。お母さんだって嫌なんだから」

このやり取りを幾度と無く繰り返していました。

しかしながら、私が中学生になった頃から、その入退院に対して何も思わなくなりました。
入院を告げられても、じゃあ弁当が無いから購買でパンを買うお金をくれ、などと言っていました。

母の作るお弁当は、私が好きなものがふんだんに盛り込まれており、豚カツ、ハンバーグ、ソーセージなどの肉類がお弁当の大半を占め、ボリュームは凄いものでした。まあ、それほど食べていた、ということでもありますが。
中学生の頃はそれを残さず食べていましたが、高校生になる頃には、その緑色の無い茶色い弁当が周囲に対して少し恥ずかしいものになっていました。

何より、高校生に入学した頃から、時々母の作るお弁当に髪の毛が入っていることが多々ありました。
その度に私は大変怒って、母に怒鳴りました。

「お母さん!!弁当に髪の毛が入ってたよ!!だから半分も食べなかった!!」

怒りにまかせてそう怒鳴る私に対し、母はただ、ごめんね、とだけ呟いていました。
その時の母の悲しそうな顔を、今でも忘れられません。
後から分かったことですが、この時から母は、抗がん剤を投薬されており、徐々に髪の毛が抜け落ちていたのです。
それが、私のお弁当に入ってしまっていたのですが、そんな事情も知らず、いえ、知ろうともせず、母を攻め立てた過去を、今でも悔いています。

 

その後、母の癌が再発し、長期入院となったことを知らされたのは、私が高校一年生の終わり頃でした。

母が長期入院して、三ヶ月経った頃でしょうか。

主治医から家に電話があり、あの台詞を聞くことになったのです。

 

それまで、母の容態がそこまで悪いとは思わず、お見舞いにもそこまで行かなかった私ですが、それからは部活が終わる夜八時以降に、家には帰らず直接病院に行くようになりました。
部活や学校が休みの日は、昼頃には母の入院する病院にお見舞いに行っていました。
母は、髪の抜け落ちた頭部を隠すようにニット帽を被って、笑顔で私を病院のベットから迎えました。
その際、母は必ずお小遣いと言って五千円を私にくれました。

お見舞いに来てくれたことがよっぽど嬉しかったのでしょう。
まるで「また来てね」とその五千円で代弁しているかのようでした。
しかし、私はそれを受け取るのがとても辛かったのです。
医者から余命宣告されている母に、ただただ会いたい気持ちでお見舞いに行くのですが、母は決して裕福ではない身にも関わらず、そっとお金を渡してくるのです。

心の中では「お金は要らない!余命が短いお母さんに会いたいだけだ!」と叫んでも、表面上では喜んで受けとらなくてはなりません。

なぜなら、母が余命宣告されたことを、絶対に本人には言うなと父から言われていたからです。

私がお金を拒否したならば、するどい母は必ず私を疑い、自らの病状に感付いてしまうと思っていたのです。
それが、何より怖かったのです。
そうすると、やはり見舞いに行く回数は減っていきました。
恐らく、病状が進行し、弱っていく母を見たくないという気持ちもあったのだと思います。ただただ、それを忘れるように、部活に打ち込み始めました。
この頃、余命短い母に対し、週に一回だけ家に帰ることが許されました。
その木曜日だけは唯一家族団欒ができました。そして、その夜、母は毎回必ず私に尋ねました。

「明日、お弁当いるでしょう?」
「いや、いらない。学食で食べるから」
「そう。じゃあ、私も作らなくていいから、楽できて助かるわ」

そんな何気ないやり取りも、何故かいつもの日常に母を取り戻したかのようで、とても嬉しかったことを覚えています。
しかし、母は次第に弱っていきました。

いつしか体は様々な管で繋がれ、痰をとるチューブが常に口に入っていました。
当然、週一回の帰宅も許されなくなり、絶対安静が当たり前になりました。

それでも、たまに見舞いに来る私には、起き上がることはできずとも、気丈に笑顔で出迎えてくれました。そのような母の姿を、まともな精神では見れなくなり、さらに見舞いに行く頻度は減ってゆきました。

 

そんなある日。部活が夜九時頃に終わり、さあ、家に帰ろうという時、全く理由は無いのですが、妙に母の入院する病院に行きたくなりました。そして、いつも家に帰る時に降りる駅を通り過ぎ、四駅先の病院のある駅に到着しました。
時刻はすでに夜十時前。
こんな時間に行っても、母は寝ているだろうし、面会させてもらえるかもわからないのですが、私の足は自然と母の病室に向かいました。

そして、母の病室前で見た光景に、戸惑いました。

「ああ、来たか。お母さんに会ってやってくれ」

親戚の叔父さんでした。その叔父さんだけではなく、他の親戚も多く病室の前に集まっていました。

「え?みんな、どうしたの?ここで何してるの?」
「は?お前、何も聞いてないのか?」

まさに、虫の知らせというやつです。

私が到着した時には、母は危篤状態でした。
病室に入った父から、私の学校にも、家にも電話したが、私には母の状態を伝えられなかったことなどを聞いて、鳥肌が立ちました。

まだ、携帯電話など無い時代です。伝えられるはずもありません。
ですが、母からのメッセージは確実に私には伝わっていたということです。

 

母が逝ったのは、翌早朝。七月七日のことでした。

桜を見ることはできましたが、ついに七夕の日、母は旅立ちました。
しかし、不思議なことに涙はでませんでした。母の死を受け入れられないのでしょう。他の皆は全員泣いているのですが、私一人泣けませんでした。
そして、母の遺体を処置するために、女性以外病室を出された時のことです。
母の主治医が私に近寄り、告げた一言で、私は溜まっていたものが吹き出るように泣き崩れました。

「お母さんが言ってたよ。『週に一回家に帰って、息子にお弁当を作ることが楽しみなんです』って」

私が18歳の頃の話です。母には親不孝な息子でした。
正直、後悔だらけです。そして、何よりも強く思うことがあります。

 

母の作った茶色いお弁当を、今、この年齢になって、本当に有り難く、そして、できるならば、また食べたいな、と。