楽しくもあり、やさしさもあり、厳しさもあった父親との想い出

終活はこれから旅立つ方の視点が多いですが、見送る側の気持ちも理解しておく必要もあります。
このカテゴリでは見送る側の気持ちを、様々な故人とのエピソードから覗いてみます。

 

今回はその第7回目。埼玉県K.Sさんのエピソードです。

 

 

subesube_父親との写真

・幼少の頃
昭和4年生まれの父親の次男として生まれた私は、それなりに裕福な家庭で育ちました。
父親は新聞社に数年勤めた後、今で言うコピーライターとして昭和39年に赤坂で会社を設立しました。
時代が良かったのか、とても忙しくしていたそうです。
私が3歳のになる春に高井戸近くのマンションに引っ越し、車で10分ほどの幼稚園まで送迎をしてくれました。
小学生になるとキャッチボール、昆虫採集、魚釣り、将棋など色々な遊びを教えてくれました。
一方で、勉強や言葉遣い、生活態度には厳しい面もありました。
勉強面では特に国語と算数はかなりレベルの高いことを教えてくれました。
5年生のころ、当時はまだ珍しかった中学受験を勧められ、日曜日以外はほとんど遊ぶことは許されませんでした。
その甲斐あってか渋谷にある私立の中学に合格できました。

 
・中学生~高校生の頃
中学生の時は土日が休みということもあり、箱根や伊豆、山梨など自然の多い場所に連れて行ってくれました。
また、マージャンや百人一首、オセロなど頭を使いながら遊ぶことも教えてくれました。
高校に上がったころ、隠れてタバコやお酒に手を出し始めた私を怒る訳でもなく、何となくその害を伝えてくれました。残念ながら、聞き流してしまいましたが。
大学へ進む時、「どうしても行きたい学部があるならば構わないが、法学部はどうだ?」と珍しく進路のことで話してくれました。
正直、そのころは「堅苦しい学部だなぁ」と感じていましたが、結果は法学部に決めました。

 
・大学でのデタラメな暮らし
大学は1~2年生は神奈川県の厚木キャンパス、3~4年は青山キャンパスです。
厚木と言っても今とは違い、厚木駅からバスで30分以上の遠い場所で何もないところでした。
中古の車を与えられ、キャンパス近くのアパート住まいです。

ほとんどがやりたい放題の状態です。
昼間はパチンコやマージャン、夜はナンパ。こんな毎日でした。
これでは単位など取れるはずはなく、15科目中、11科目が不合格でした。

それを知った父親は今までにないほど烈火のごとく怒りました。
父親は学校をやめさせると言い、懇意にしていた女性の教授にその旨を伝えました。
仕方ないなと思っていましたが、数日後に「5年で卒業しろ」と言ってきました。
その教授が「私の責任で卒業させるから、もう一度チャンスを与えてあげてください。ただし、5年は覚悟してください」と言われたそうです。
今考えると、どれだけデタラメな生活だったんだろうと痛感します。
以降、3年間は週に1~2日は教授室に呼ばれ、長いと8時間休憩なしの英語のレッスンが始まりました。

他にも教授の紹介で法学部の大学院生の家庭教師も付きました。
そして、父親も教授もビックリの4年で卒業することができたのです。
この3年間のことは今でもいい思い出です。

 
・社会人になって
バブル景気が終わったことが、うっすらと社会では認識されかけたころで、就職は楽ではありませんでしたが、知り合いの紹介で大手製造メーカーの子会社に入社しました。
父親はかなり短い言葉で、社会ってこうなんだよ、というようなことを教えてくれました。
まだバブルの残り火があり、入社3年目くらいまでは順調でした。
ところが4年目からは劇的に景気が悪くなっていき、親会社を含め、全てが悪循環になりました。
主に営業職だった私の成績もガタ落ちになってきたころ、父親はまたアドバスをくれました。
「そういう時期はあるものだ。我慢をしながら会社のためにガンバレ」と。
しかし、もの凄い景気の悪さに嫌気が差し、4年間で退職をしてしまいました。

 
・退職した私をさとす父親
景気の悪い中、勝手に仕事をやめた私を食事に誘ってくれた父親。
このときは、「これからどうするんだ?」と心配をしていました。
今までは会社という組織の一員であったため、やりやすい面もあったはずで、一人で何かをするのは難しいと丁寧に説明してくれました。
数ヶ月、ゆっくりした後、父親の会社に入り、どんな仕事でもいただいてくるという生活が始まりました。
父親は心配してくれましたが、運のいいことに大口の仕事をいくつか取ってきました。
寝る間もないほど忙しく、逆にあまりやり過ぎるなと心配をしていました。

 
・順調だったはずの親子関係
私が35歳ころから少し仕事が減り始め、さらに社員の高齢化が進みました。
会社以外の問題もあり、何となく親子関係がギスギスしていきました。
38歳の頃、私は結婚し婿に入りました。同時期に会社も退職しました。
東京と埼玉という近いようで遠い暮らしが始まり、親と会う回数は激減しました。
その頃の私は、もう親とは会いたくないという心情でした。

 
・2017年5月15日に起こったこと
7~8年ほど両親ともに会っていなかったのですが、突然、2月の終わりに連絡があり、父親が白内障の手術をするので、送迎を頼むと言われました。他に頼む人がいないと言うので、しぶしぶ了承しました。
仕事の予定をキャンセルし、二日連続で送迎です。
道中、当たり触りのない会話をしながら送迎しました。
その後、また音沙汰がなかったのですが、5月15日の昼頃、銀座で昼食を食べているときに母親から電話がありました。
父親が自宅で急に倒れたと言うのです。

 

詳しくは話さず、すぐに病院に向かいました。
多摩にある救急救命センターという東京都の肝入りの病院です。手術は成功したが、まだまだまったく安心はできないとの説明でした。
ゆっくりと回復にむかっているようでしたが、6月7日に様態が急変し、帰らぬ人となりました。

 
・今、思うこと
疎遠になっていた父親。もういないと思うといろいろと思い出してしまいます。
なぜ親子関係を修復しようとしなかったのか、子供の頃に遊んでもらったこと、厳しくされたこと・・・。
せめてもの救いは久しぶりに医者への送迎で話しができたことです。
まだまだ元気な母親とは月に1回くらいは会わなければと思っています。