シリーズ -「 死を考える技法」入門①

みなさんは、たとえば腹痛などで医者にかかった際、その痛みについて「チクチク痛む?」などと問われたことはないでしょうか。
あるいは、「ズキズキ」でも「ピリピリ」でもかまいません。

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正直、「チクチク」でも「ズキズキ」でもあるし、あるいはそうではないような気もします。
状況によっては、言えるのはせいぜい「すごく痛い!」や「なんとか耐えられる痛み」といった具合でしょうか。

おとなが二人、面と向かって「チクチクと言われれば、チクチクのような……」とか、「もしかしたらピリピリかもしれません」などと話すのは端から見れば滑稽ですが、医者と患者はいたって真剣です。

医者にかかりなれていない生真面目な人であれば、
「強いて言うならモガモガ、といった感じかもしれません……」
「モガモガ?」
などといったやりとりをして、後々恥ずかしい思いをすることもあるでしょう。

このようなシリアスな状況において、オノマトペに頼り、曖昧な会話を繰り広げなければならないのは、一体なぜなのでしょうか。

「木漏れ日」という単語は英語にはない

「木漏れ日」という言葉を知らない子供に、あなたは「木漏れ日」をどう教えてあげられますか。
英語には「木漏れ日」に該当する単語がなく、ただ「木漏れ日がきれいですね」と伝えたいだけでも、大変冗長となってしまいます。

その逆に、たとえばスウェーデンの言葉である「MÅNGATA(モーンガータ)」
これは「水面に映る、道のように見える月明かり」を意味しますが、それを一言で言い表す言葉は日本語にはありません。

他人のことは体験できない

本題に入るのが遅れましたが、言葉は土地や環境によって特殊性を帯びます。
学問などにおいてはそれが顕著で、特に医学や心理学においては、被験者の痛みや心の状態を直接体験することはできないため、より言葉に頼らざるを得ない状況が生まれます。

そういった意味で、「死」を理解するということは、もっとも言葉に頼らざるを得ないことであると同時に、言葉ではどうしてもたどり着けないものだと言えるでしょう。

死を考える技法

それでもなお、「死」を理解しようと努める人たちがいます。
哲学者です。
哲学が難解に感じられるのは、実際に難解であることはもちろんですが、そこで用いられる言葉の特殊性にも起因すると思います。

良く知られたものであれば「アイデンティティ」。日本語では「自己同一性」といいます。

こうした複雑な意味内容を含んだ言葉が多用される背景にあるのは、もっと先へと考えを推し進めたいという気持ちと、その共有の必要でしょう。

推測に過ぎませんが、冒頭で触れた状況、腹痛にみまわれたのが医療に携わるひとであった場合、その痛みは言葉でより具体的に伝えられたでしょう。そしてそのことで、より適切な治療が施されるかもしれません。

『存在と時間』

さて、「シリーズ -「死を考える技法」入門」
と題しましたが、このシリーズを発案するに至ったのは、
『誰にもわかるハイデガー』 著:筒井康隆
という本を読んだからです。

ハイデガーの『存在と時間』。
専門家が一生を賭すに値すると言われるこの著書を、小説家である著者はたった一度の講演で説明しました。
もちろん、触れられているのはほんの触りです。

しかし、まさに「死」を扱ったこの難解な著書を、「誰にもわかる」と題したのは見得ではありません。
そこでは、ハイデガーが作り出した「言葉」を、小説家らしくより一般的なカタチになおし説明されています。

「死を考える技法」があるとすれば、「言葉」を使うほかありません。

「シリーズ -「死を考える技法」入門」は、「終活マガジン」の過去の記事を振り返りつつ、『誰にもわかるハイデガー』で解説されている「聞きなれない(死を理解するための)言葉」を参照に、より「終活」について深く考えることが目的です。

今回は冗長な序文となってしましたが、次回は『誰にもわかるハイデガー』 (著:筒井康隆)の簡単な紹介から始めたいと思います。

どうぞ、お付き合いいただければ幸いです。