シリーズ -「 死を考える技法」入門④

前回の記事では、「本来性」「非本来性」について述べました。

そのうえで、今回は「曖昧性」、そして「不安」と「恐れ」についてご説明します。

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いつのまにか

例え話からはじめましょう。

自分は必ず死ぬ。年齢的に考えても、そうしたことの準備を始めるべきである。
死ぬと墓が必要になる。いま、墓は用意していないため、購入しなければならない。
では、どのような墓が良いか。自分に適したものはどのような墓か。
最近は墓にもいろいろとあるようだ。興味深い。

上記の思考の流れは、前回ご説明した「本来性」から「非本来性」へと移行しているように感じられます。
最後には、最近の墓の充実ぶりや多様性に興味を抱き、ある種の楽しさを感じているからです。

とはいえ、「本来性」から始まったこの思考の流れそのものは、どちらと捉えるべきなのだろうか——というような、そういった区別の難しさを「曖昧性」と称するそうです。

そんなことを言えば、すべての「終活」にまつわる思考は「曖昧性」を持っているのではないか、と思われるかもしれません。
おそらくその通りです。「曖昧性」とは、常につきまとわるようです。

だとしたら、——つまり全部「曖昧性」を持つのだったら——、そもそも「本来性」だとか「非本来性」だとかを分ける必要が——仮に哲学者には必要だったとしても——われわれの「終活」に必要なのでしょうか?

ここで「不安」という言葉の説明に移りたいと思います。

「不安」

「不安」という言葉について考えることは、今回の連作記事の中でも特に重要なものとなるかもしれません。

ここでの「不安」。つまり『存在と時間』における「不安」。
それはまさしく本来的なことを指しており、ただ、その「不安」を感じるまでの経緯の説明は原著において長大なようで、本稿の参考図書である『誰にもわかるハイデガー』では割愛されています。

さて、さきほどから述べている「不安」——それはいったいどういったものなのか?
このことをお伝えするには、みなさんの経験に頼らざるを得ません。

「不安」とは、自分が死ぬということを突如思い出し陥る状態のことを言います。

筆者の感覚では、「不安」が起こるのは幼少の頃が多かったと思います。

たとえば、小学生だった自分。放課後、友人たちと遊び、楽しい時間を過ごし、夕暮れを向かえる。もう暗くなるから帰らないと。
友人たちと別れ、黄昏時に帰宅すると、いつも台所で夕食の準備をしている母親がいない。家には誰もいない。あっという間に夜になった。母親が戻ってくる。
母親はほんのひととき、雑用のついでに隣家でおしゃべりをしていただけのようだった。

どこかで共感を得られるように、少し理由や経緯を工夫してみたのですが——、上記のようなことがあった夜、就寝の時間を迎え横になっている時、ふと、「ああ自分はいつか必ず死ぬのだ」と思い、途方も無い気持ちになる。

筆者の解釈では、おそらく「不安」とはこのようなものだと思います。
読まれているかたの中には、わかっていただけた方も、またまったくそうでない方もおられるでしょう。

このことの説明の難しさは、「不安」という状態の性質上、仕方がないのかもしれません。
というのも、「不安」には対象がないのです。その理由は、「不安」の原因が自分自身が死ぬことだからです。
自分自身が、自分の「本来性」に直面し陥るのが「不安」なのです。

他者の介在が完全にないこの現象をお伝えするには、どうしてもみなさんそれぞれの経験に問いかけるほかありませんでした。

「恐れ」

そしてこの「不安」の、「非本来性」のかたちを「恐れ」と呼ぶようです。つまり、「恐れ」は「不安」と異なり、対象が自分自身ではなく、明確に外部に存在する。
もしも、路上で猛獣——たとえばライオン——と遭遇すると恐ろしいでしょう。
この時に感じる「恐れ」とは、単純にライオンが恐ろしかったり、理解不能な状態となっている現実が恐ろしかったりと、そういった自分でないなにかを対象とした感情です。

でも、ライオンがいたら、食い殺されるかもしれないのだから、結局「自分の死」を恐れているということにはならないのか? と思われるかもしれません。

このことをご説明するには、「不安」と照らし合わせてご想像いただく必要があります。
ライオンのような、頓狂な例でなくとも、たとえば地震。残念ながら、この国ではたいへん身近な自然災害です。
地鳴りの音がひびき、地面が揺れる。
この時、上で説明した「不安」という状態に直面はしないでしょう。
地震があった夜に、ひとり「不安」になることはあるかもしれませんが……。

つまり、やはりこの時も「地震」という対象に恐れを感じているわけで、それを飛び越えて——直面している「恐れ」の対象を無視して——「不安」に陥ることは不可能だと筆者は想像します。

「不安」とは、「ひとりである」ということを強く意識したうえで生じる現象なのです。

ひとり

ですが、先ほどからわかりやすい例として就寝前を挙げていますが、「不安」に陥るのはひとりでいる場合には限りません。
それはふいにやってくるのです。

友人や家族と夕食を取り、談笑していたとしても、エアポケットに入ったように、ふと「ひとり」になる。
そういう経験はないでしょうか。

いまはこんなふうにみんながいるけど、目の前にいるけど、それでもいずれは自分ひとりで「自分が死ぬ」という状態を受け入れなければならないのだ——と、ふと……。