シリーズ -「死を考える技法」入門⑥

シリーズ -「死を考える技法」入門、その⑤回目である前回では——ハイデガーの『存在と時間』における第1編部分に登場する言葉を使い、「終活マガジン」の過去の記事を考えてみる——という試みを行いました。

今回より第2編を扱いますが、その内容は第1編よりも難解に、かつ宗教的になってゆきます。
ですが、当シリーズはあくまでも「死を考える技法」、その入門のためのもの。

『存在と時間』に登場する言葉を使い、おぼろげにしか捉えられない「死」をなるだけ扱いやすくできないか。それが目的です。

では、第2編から「未了」という言葉をご紹介します。

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未了

シリーズ -「死を考える技法」入門③」でご紹介した「本来性」および「非本来性」という言葉。
その後も何度も登場させ、このシリーズにおいて最重要の言葉といえるでしょう。

「未了」の説明の前に、この「本来性」と「非本来性」について再度ご説明いたします。

「本来性」と「非本来性」の復習

「それが必ず死ぬ存在であり、それを受け止め、そのうえで生きているありかた」
そうしたものを目の当たりにしている状態を「本来性」のある状態と言います。

「人は必ず死ぬ」
これは逃れられない事実でありながら、ひとびとは目をそらしがちです。
過去に記事にした「メメント・モリ」という言葉。
それはラテン語で「死を忘れるな」「死を想え」という意味の警句でした。

つまり「死」から目をそらしている時間を「非本来性」と称します。「本来性」ではない状態です。

未了=終わっていない

「本来」としているものが「必ず死ぬ」ということである以上、『存在と時間』においては「必ず死ぬ」ということが話の軸となります。
そしてそこに「時間」の感覚を取り入れた時、「未了」つまり、まだ終わっていない、というのは、つまり「生きている人間」の「状態」のことを指します。

さて、「シリーズ -「死を考える技法」入門②」で述べた通り、「人間」は「現存在」です。
つまり、「現存在」は常に「未了」であるということになります。

この「未了」という言葉の考え方はとてもポジティブで、人間には完成が無い、常に終わっていない、ということを意味します。
ちなみにハイデガーは、「死」のことを「最極限の未了」と称しています。

完成とは?

ところで、では「未了」ではない状態はどのようなことを指すのでしょうか。
植物などだとわかりやすいかもしれません。花を咲かせ、そして散る。その中で「完成」の状態は花を咲かせた時でしょう。
「散る」という段階は、すでに終わりの行程にあります。

ところが、人間は「死」が「最極限の未了」である。つまり、生きている限り「未了」であり続ける。
この考え方は、『存在と時間』という大著のその後の展開のために必要不可欠なのですが、とはいえ、ただ人間とは「未了」である、と言葉で捉えるだけでも随分と有意義なこととは思えないでしょうか。

「終活」もまた「未了」の時のこと

いくら「終活」を行なっているとはいえ、その時ひとびとは「未了」なのです。
「終わり」への道程もまた、可能性であり、終わっていないという証明になるのだと考えると、「終活」という行為の前向きな感触がより強く感じられるのではないでしょうか。