ビデオゲームとエンディング②

さて、前回の記事では、最新のテクノロジーがわれわれの「エンディング」に、主に視覚効果として寄与していると述べました。

今回は、特に「ビデオゲーム」に焦点をあて、さまざまな角度からその「エンディング」との関わりについて言及したいと思います。

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繰り返される「死」

まず述べておきたいのは、ビデオゲームの特性が意図せずあぶりだした死生観についてです。

たとえば、30年以上前に誕生し、いまもなおそのシリーズが世界中で人気を持つ「スーパーマリオブラザーズ」。

主人公であるマリオとルイージの兄弟が、さらわれたピーチ姫を救出する物語です。
その道中は困難で、マリオとルイージは穴に落下したり、クリボーやノコノコという名の敵との接触によって幾度も命を落とします。

基本的にビデオゲームというのは、ゲームオーバーとなっても繰り返し遊べるものです。
ですので、マリオは命を落としても、何事もなかったかのようにふたたびピーチ姫の救出に向かいます。

いまさらこのことに疑問を持つ方は少ないのではないでしょうか。
もしかすれば、「死んでしまったのだから、ふたたびプレイできるのはおかしい」と、『スパイ大作戦』のテープのようにゲーム機やゲームソフトが自動的に消滅することを望む方もいるかもしれません。

ですが、いやゆる「暗黙の了解」として、繰り返される「死」はビデオゲームの歴史の中で受け入れられてきました。

グラフィックの進化

さて、「スーパーマリオブラザーズ」のような「ドット絵」と呼ばれる描写のキャラクターの頃は、まださほど繰り返される「死」に違和感はありませんでした。
ですが、技術は日進月歩、昨今のビデオゲームは高度なCGによって、非常にリアルな人物が描かれる場合も珍しくありません。

とはいえ、ビデオゲームの基本は変わらない。
つまり、ゲームオーバーとなっても繰り返し遊べなければなりません。

まるで実写のように人物の死を精緻に描かれた後、そのことがマリオの死のようになんでもないこととして扱われてはさすがに違和感が生じます。

こうしたことが、ビデオゲームに「繰り返される「死」」の説明を求めることになったのです。
昨今のビデオゲームは様々なカタチでこの「繰り返される「死」」と向かい合い、中には大変哲学的な内容を持つものもあります。

さて、技術の進歩によって、「繰り返される「死」」というテーマはビデオゲームの得意分野になりましたが、当然その他の分野で扱われていないわけではありません。
なにしろ、それは「死」を考えるうえで、非常に効果的な方法だからです。

『存在と時間』のおける一回生

ごく当たり前のことですが、人間は一度死んでしまえばおしまいです。
ハイデガーの『存在と時間』においては「一回生」と呼ばれていることです。

なので、経験することはできない。また、経験者に体験談を聞くことも叶わない。だから誰にもその正体はわからない。

これは「絶対」のことで、このわかりようのないことを経験しないままわかろうとしたハイデガーの仕事は恐るべきものですが、その代表作『存在と時間』がそれに相応する難解さを持つことは、「シリーズ-「 死を考える技法」入門」によって幾度も言及しました。

もっと簡単に糸口は得られないものか。

そこで「仮定」を用いてみるとします。

繰り返される「死」、という仮定

「死」は経験不可避だが、仮に経験可能だとすれば?
それはつまり、「死」のあとがあるということだ。
また、だとすると、「死」を経験した人から話を聞くことも可能である。

ビデオゲームは、その技術進歩から、こうした仮定を設ける必要に駆られ、そしてそれと向き合います。そして、その成果は広がりつつまります。

たとえば、桜坂洋による2004年刊行の小説『All You Need Is Kill』がわかりやすいでしょう。
この小説のテーマは、まさに繰り返される「死」。そしてその着想はビデオゲームにあったと作者は語っています。
そしてその後、『All You Need Is Kill』はトム・クルーズ主演のハリウッド映画の原作となります。

ビデオゲーム、小説、そしてハリウッド映画へと波及した繰り返される「死」というテーマ。
こうした広がりの背景には、人々がなんらかのカタチで「死」を捉えたいという気持ちがあることは明白でしょう。