ハイデガーから考える断捨離 – 前編

「終活マガジン」では、過去、「シリーズ-「 死を考える技法」入門」という記事で、ハイデガーの著書『存在と時間』に登場する「言葉」を取り上げてきました。

今回はその番外編となりますが、そのテーマは「物」です。

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というのも、昨今、「終活」にまつわる話の「中心」にあるのは「物」であることが大変多いことに気がつき、あらためてそのことについて考えてみるべきだと筆者には感じられたからです。

代表的なものでは「断捨離」という言葉。
不要な物を捨てる。物への執着心を無くす。

「不要」や「執着」という言葉を使うことで、「物」の存在にネガティブな印象を与えることになりますが、本稿では、ハイデガーの用いた「配慮的気遣い」という言葉を通して「断捨離」を考えてみたいと思います。

「道具的存在者」

「配慮的気遣い」の前に、まずはこの「道具的存在者」という言葉を説明しなければなりません。

われわれの身の回りにあるもの。道具。「断捨離」の対象となるものですが、こうしたものをハイデガーは「道具的存在者」と称しています。
身近なところでは、ペンやコップ、今記事を読むのに使っているパソコンやスマホ、こうしたものはすべて「道具的存在者」ですし、ひいてはみなさんがいまいる建築物、乗り物、それを含む都市なども「道具的存在者」です。

「配慮的気遣い」

これら(「道具的存在者」)をわれわれは「気遣って」います。

コップのふちが欠けてしまったので、捨てるかどうか考える。これは、コップの状態への気遣いを通して、自身を気遣うことになります。
つまり、「欠けたふちで指や口を切ってしまうかもしれない」という自身への気遣いが根本にあるということです。
同様に、バッテリーのもたなくなってきたスマホやケータイ電話を修理に出す。これもまた、通信機器への気遣いを通した自身への気遣いと言えます。
こうしたことすべてを「配慮的気遣い」と言います。

さて、いまスマホを例に出しましたが、スマホの機能、仕組み、構造を完璧に理解しているひとがこの世には何人いるでしょうか。
コップならまだしも、いま我々の身の回りには大変複雑な「道具的存在者」が多数存在しています。
一説には、一台のノートパソコンの構造を完全に理解している人間はいないとも言われています。

ですが、スマホやノートパソコンが「道具的存在者」であるために、その理解は必要ではありません。
道具としての何らかの用途。電話をかける。メールを送る。文章を書く。
そういった了解がある時点で、これら複雑な機器はすでに「道具的存在者」となるのです。

「事物的存在者」

このことはつまり、本来「道具」と呼べないものも「道具的存在者」となることを意味しています。

たとえば、飛ばされた帽子が木の枝にひっかかってしまう。飛び上がっても手が届かない。周囲を見渡すと、落ちた枝が目に入る。これを使えば、帽子が取れそうだ。

この時、落ちていた「木の枝」は帽子を取るための「道具的存在者」になります。要するに、使う人の認識の仕方の問題です。
一方、帽子がひっかかった「木の枝」はそうではありません。こうした自然にあるなんでもないもの、そういったものはすべて「事物的存在者」とハイデガーは称しています。

落ちていた「木の枝」は帽子を取るために必要なので、それが折れたりしないようわれわれは「気遣い」ます。
ですがほとんどの場合、無事に帽子を取れれば、「道具的存在者」はただの木の枝、つまり「事物的存在者」へと戻っていき、もとあった場所に捨て去られます。

「これは素晴らしい道具だ」とその木の枝を持ち帰るひとはそういないでしょう。

付随するもの

——ただ、絶対にいないとは言えません。

砂浜で見つけた、波にもまれ角のとれたガラス片。
幼少の頃、そうしたものに美しさを感じ、持ち帰ったひとも珍しくはないでしょう。
そして年月を経て、それがただのガラス片にしか見えなくなっても、幼少の頃の記憶はそれに付随する。

「断捨離」という言葉が向かい合わせようとしているのはそうしたことです。
それを「不要」「執着」という言葉で説き伏せようとしている。

確かに「不要」ですし、そこにあるのは「執着」でしょう。
ですが、それだけでしょうか……?

次の記事では、今回ご説明した「道具的存在者」「事物的存在者」、そして「配慮的気遣い」という言葉を通して、そこにある「不要」と「執着」に別の角度からの光を当ててみたいと思います。