おとぎ話の不可解

世界中におとぎ話はありますが、日本にも多くの昔話が存在します。

たとえば「○○太郎」。
現在、携帯電話会社のテレビコマーシャルでは「桃太郎」「金太郎」「浦島太郎」を俳優が演じ、彼ら「○○太郎」の話は老若男女によく知られたものであることがわかります。

ですが、あらためて思い返してみると、どの話もいまひとつ合点がいかない気はしないでしょうか?

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今回は「おとぎ話」の不可解から、「死生観」を巡るヒントを見出してみたいと思います。

教訓は何なのか

おとぎ話の多くは、絵本などで大人が子供に読み聞かせるものとして認知されていると思います。
筆者もほとんどのおとぎ話、昔話は絵本で知り、知識といえばその当時のもののままです。

以前「シリーズ – かぐや姫にまつわる死生観」という連作記事を掲載しました。
この記事の執筆において、筆者は「かぐや姫」という物語をあらためて見つめることにより、そこに深い「死生観」が存在することに気付きました。

しかし、幼少の記憶のままである他の多くの昔話は、いまもなお不可解なままです。

たとえば「浦島太郎」を考えてみましょう。

浦島太郎

筆者の記憶では——
浦島太郎はいじめられている亀を助けるという善行をおこない、その見返りとして亀に竜宮城へと連れられます。
そしてそこで大変にもてなされ、おみやげに「玉手箱」をもらいます。
ところがそれを手渡した乙姫は、不条理にも「絶対に開けてはいけない」と言います。だったら、渡さなければ良いのに。
地上に戻った浦島太郎は当然「玉手箱」を開きます。すると浦島太郎は老人になってしまい、話は終わります——。

因果応報で考えれば、浦島太郎は善い行いをし、それによって善い待遇を受けるところまでは納得できます。
しかし、その後なぜ老人になってしまうのか。

絵本を読み終えた幼少の筆者には「ああ、いじめられている人を助けることは良いことだ」というような教訓は一切もたらされず、「開けてはいけないと言われたものを開けるとおじいさんになる」という印象だけが残りました。

教訓などない

おとぎ話、昔話の多くは口承によって伝えられてきたいくつかの説話が混ざったものがほとんどです。
ゆえに理屈が通っていることや、教訓などがそこに含まれていることを期待するのがそもそもの間違いなのでしょう。

むしろ、そうした不条理を教えたり、「なぜ?」という疑問から探究心を触発することのほうが、子供に読み聞かせるうえでは大切なことなのかもしれません。

さて、もう子供ではなくなってしまいましたが、筆者も「浦島太郎」について少し考えてみました。

以前、「風葬と亀甲墓 – 沖縄の死生観」という記事で扱ったのですが、沖縄に見られる独特の墓「亀甲墓」は一説には胎内を模していると言われます。
また「竜宮」を日本の民俗学で考えてみると、これも上記の記事で触れた「ニライカナイ」がもっとも近しいように思えました。

そう考えてみると、亀に連れられ竜宮城へ向かうということは、——「亀甲墓」によって「ニライカナイ」へと向かう——、つまり「死の道筋」そのものを示しているのかもしれないと思いました。

であれば、そのお話にはいくつかの時代の「死生観」が反映されていると考えられます。

今回は「浦島太郎」を例に挙げましたが、おとぎ話、昔話は世界中に数限りなく存在します。
また土地や時をまたいで類話が存在するものも多くあり、たとえば「浦島太郎」にはケルト文化を背景とした「常若の国のオシーン」という話によく似ています。

秋の夜長。
このように「おとぎ話」を基に、古来の、あるいは世界の「死生観」に触れてみるのも一興かと思いますがいかがでしょうか。