肉体の死/精神の死②

本稿では、過去に掲載した記事を元に「肉体の死」と「精神の死」について考えていきます。

さて、前回の終わりに述べたとおり——「多死と孤独死が生み出す引き取り手のない遺体」——それをどうとらべるべきかについての考察を始めたいと思います。

そのためにはまず、「肉体の死」と「精神の死」について、もう少し具体性を持たせる必要があるでしょう。
そもそも「肉体の死」とはどのような状態なのか。あるいは「精神の死」とは——。

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脳死

「脳死」は「肉体の死」と「精神の死」の境界を考えるのに、現状おそらくもっとも適した状態でしょう。

「脳死」は医学の発達により、脳の機能が損なわれていても人工呼吸器などで心肺機能を維持できるようになったことから生じた状態です。本来であれば、脳の機能の損傷により、やがて心肺機能は停止してしまいます。

「精神の死」を「脳死」の状態とするのは死生観によっては間違ったことになり得ますが、本稿ではそのように扱いたいと思います。

そして心肺機能の死を「肉体の死」とします。

どちらが先に死ぬのか

それぞれの国の「死亡」を定める法律や心配蘇生の可能性などはここでは省略します。

さて、心肺停止後、数分で脳に血液が届かなくなります。つまり「肉体の死」は「精神の死」を意味します。この「数分」をどう考えるかは難しい問題ですが、ここでは「肉体の死」は同時に「精神の死」でもあるとします。

その逆が前述の「脳死」の状態です。
「精神の死」は訪れているが、「肉体の死」はいまだ訪れていない。

つまり、現状考えられる「死」のケースは「精神の死」と「肉体の死」が同時に訪れた状態と、「精神の死」のみ訪れている状態のふたつです。

かつてはSFなどのフィクションでのみ考察されていたケースとして、「肉体の死」が訪れてもなお「精神の死」は訪れていない状態があります。つまり、脳を別の体に移植したり、あるいは脳のみが「生きている」といった状態です。
日進月歩の科学はやがてこうしたケースも現実的な問題の俎板に上げるでしょうが、本稿ではひとまずこの問題は脇に置いておきます。

ここまでをまとめると、「心肺停止後の数分」はさておき、我々にありうる先に訪れる「死」は「精神の死」——脳死——のケースのみです。

遺体とは?

「肉体の死」と「精神の死」の区分は上記のとおりですが、ここでひとつ疑問があがります。

「精神の死」が訪れている(つまり脳死の状態である)肉体と、遺体(「精神の死」と「肉体の死」がともに訪れている状態)の違いは何なのか。

明白なのは、前者は心肺機能を維持している、ということ。
しかし、それゆえに臓器提供の意思を表示していた場合、それはそうした医学行為によってやがて人為的に「肉体の死」に至ることとなります。

つまり医学的には脳死は意義ある状態ですが「肉体だけが生きている」という状態を多くのひとは「生きている」と考えない——。

では「肉体だけが生きている」とはどういうことなのか。

この大変な難問の答えが本稿にあるとは思わないでください。

ですが、この問題と向き合わなければ「遺体」について考えることもできないのではないでしょうか——。

「肉体の死/精神の死③」に続く