肉体の死/精神の死③

本稿では、過去に掲載した記事を元に「肉体の死」と「精神の死」について考えていきます。

前回「精神の死」が訪れている(つまり脳死の状態である)肉体と、遺体(「精神の死」と「肉体の死」がともに訪れている状態)の違いは何なのか、という疑問を記しました。

この難問を考えるうえで、取り扱うべき分野はなんなのか。そもそもそこからが難しい。
医学なのか、哲学なのか、それとも神学なのか。いや、それらについてすべて学び、総合的に考える必要があるのかもしれません。

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ですが、いずれ死ぬ我々にはそんな時間は残されていません。
「不死」の存在ならば、そうしたことを全て学び考え検討する時間はあるでしょうが、あいにく「不死」であればそんなことを考える必要はない……。

「いっそ、一度死んだ人にインタビューしたい」

それは不謹慎な冗談のようですが、そうした着眼点を持つものがフィクションには多々あります。
医学、哲学、神学についてここで述べることはできません。
その代わりと言ってはなんですが、フィクションに潜在する「いっそ、一度死んだ人にインタビューしたい」という着眼、それらについて本稿では考えたいと思います。

フィクションという思考方法

生ける屍

さて、ゾンビという「死のカタチ」については、過去に「ビデオゲームとエンディング③」という記事で取り上げました。

B級ホラー映画などによく登場するせいで「ゾンビ」というとどこか馬鹿らしく感じるかもしれませんが、それは前回の最後、および本稿の冒頭で述べた「精神の死」が訪れている(つまり脳死の状態である)肉体と、遺体(「精神の死」と「肉体の死」がともに訪れている状態)の違いを体現する想像物です。

しかも、そこには多種多様なアプローチが見られます。

たとえば、死んでしまうとゾンビに転化してしまう世界において、ある少女が死んでしまう。その父親はどうしてもゾンビになってしまった愛娘を葬ることができない。

こうしたケースはゾンビを扱った作品ではそう珍しくありませんが、ここでは重要な問いが発せられています。つまり、この例において父親は「精神の死」を受け入れられない。
頭では理解できていても、娘の姿形を残し動く(肉体は生きている)存在と「遺体」を同一視できない。

これは、複雑な問題を「ゾンビ」という仮定を置くことで、視覚的にわかりやすいものとしていると言えるのではないでしょうか。

ロボット・AI

人工知能に関する報道がここ数年目立ちます。

ロボット・AI——、こうした存在から「死」を、あるいは「生」を問う作品を以前ご紹介しました。業田良家の『機械仕掛けの愛』というマンガです。

業田良家 – 無機物から命を考える作家

やがてロボットが意思を持ち始めたら……、その時に彼らの人権はどうなるのか……。
そうした疑問はもはや以前ほど空想めいたものではありません。そしてその疑問は「肉体の死」と「精神の死」に混乱する我々を逆照射します。

「それをどう見るか」

「いっそ、一度死んだ人にインタビューしたい」、そうした着眼から仮定を設け、深く考える。それと同時に感動し、楽しむ。
優れたフィクションには、限られた時間の中で、愉楽と思考のタネを同時に与えてくれる場合があります。

とはいえ、やはり非現実的な設定や作り物では真剣に考えられない。
そういう方もいるでしょう。
しかし、「死」は経験不可能である以上、仮定や想像においてしか考えることはできません。重要なのは「それをどう見るか」にあるのではないでしょうか。

ここでもう一度冒頭で述べた疑問を記します。

「精神の死」が訪れている(つまり脳死の状態である)肉体と、遺体(「精神の死」と「肉体の死」がともに訪れている状態)の違いは何なのか

仮に、たとえば科学的な、たとえば医学的な、そんな明確な回答を得られたとして、それで納得がいくかと問われると首を傾げてしまいます。

本当に知りたいのは、自身が「それをどう見るか」なのではないでしょうか——

「肉体の死/精神の死④」に続く