肉体の死/精神の死④

本稿では、過去に掲載した記事を元に「肉体の死」と「精神の死」について考えていきます。
今回が最終回です。

連作記事「肉体の死/精神の死」では、「精神の死」が訪れている(つまり脳死の状態である)肉体と、遺体(「精神の死」と「肉体の死」がともに訪れている状態)の違いは何なのか、という疑問に、過去の記事などを紹介しつつ向き合ってきました。

そして前回の終わりにこう記しました。

仮に、たとえば科学的な、たとえば医学的な、そんな明確な回答を得られたとして、それで納得がいくかと問われると首を傾げてしまいます。
本当に知りたいのは、自身が「それをどう見るか」なのではないか。

自明のことではありましたが、筆者なりに本稿を通して再検討した結果、「死」という経験不可能なものを扱う以上、その答えはどうしてもパーソナルな感情・思考に委ねるほかないと感じました。

とはいえ、世の「死」を扱う文章に、どこか冗長かつ煙に巻いた印象をもたらすものが多いことに不満を感じていないわけではありません。
もっと明朗なものはないのか?

——というわけで、本稿では最後にアメリカの名門イェール大学にて行われている講義「「死」とは何か」、それを書籍化したものをご紹介したいと思います。

death

「死」とは何か」

「終活マガジン」では、特定の宗教間におもねらず、そうしたものをご紹介する際は、あくまでも「ひとつのケース」として扱ってきたつもりです。
「終活」に取り組むうえで、様々な死生観をすでに持っている、あるいは死生観が揺らいでいる、といった方々に向けた記事を掲載する以上、そうする必要があると筆者は考えてきました。

『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義』
シェリー・ケーガン(著)、柴田裕之(翻訳)

この書籍の著者シェリー・ケーガンもまた、そうした考えに基づきこの書籍を記したようです。
そしてなおかつ(やや冗長になってしまいがちなのは学生向けの講義が基となっていることから仕方ないかもしれませんが)、「死」にまつわる明確な解答を心がけていることに好感が持てました。

ひとつ問題点を挙げるとすれば、日本語訳である本書は、原著にある前半部分——より哲学的な部分——を抄訳としてかなりコンパクトにしてしまっていることです。
従って、読了後もどこかもどかしい感情が残ってしまうかもしれません。
ですが、それは「死」に対する哲学的思考への手がかりになり得、だからこそ軽い読み心地の入門的著作としては優れているとも言えるでしょう。

肉体の死/精神の死

本連作記事ではじめに問うたのは「多死と孤独死が生み出す引き取り手のない遺体」とは「一体なんなのか」ということでした。

そうした無縁仏を不幸な存在と思うのならば、それはなぜか。あるいは、その感慨は「遺体」そのものに向けられているのか、それとも——。

葬儀、埋葬、供養——それらを執り行う時、故人の肉体と精神を時に分け、時にひとつに見ていることを感じます。
葬儀においては、遺体を前に遺影に向かい弔辞を述べ、火葬の際は遺体に想いを向ける。
墓に参り、仏壇に手を合わせる。

意識はともかく、行為としてはいつのまにか「肉体の死」と「精神の死」を分けて扱っている自身に気が付いたことが本稿を記すに至った経緯です。
みなさんにその違和を共有してもらいたいとは考えていませんが、このような「それをどう見るか」がある、といったことが、みなさんの「終活」、ひいては「死生観」に刺激を与えられれば幸いです。

ご精読ありがとうございました。