いま「死」について話すということ

「終活マガジン」では、「終活」という言葉を軸に「死の周縁」——それは墓地のことであったり、葬儀、終末期医療、遺産のこと、などなど——について様々なことを述べてきました。

筆者はそれらのことを日々考えてきましたが、しかし、実生活において、たとえば友人などに「死後の世界についてどう思う?」などと問うことはありません。
想像してみてください。親しい友人が「死後の世界についてどう思う?」と問うてくることを。
言われて考えるのは「死後の世界」のことではなく——「(友人に)何かあったのかな?」——ではないでしょうか。

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「死んだらどうなると思う?」

子供の頃は無邪気に話せていたのかもしれません。
しかし齢を重ね、それがより現実的なものとなることに反比例し、そうしたことを口にする機会は減っていきます。

誰もが「死後の世界についてどう思う?」などと他人に問いかけず死んでゆく。
しかし葬儀は執り行われ、親族に「天国でだれそれに会えると良いね」などと思われる。

「死」ほど絶対的なものはないにも関わらず、「死」について話すことほど曖昧模糊なことはない

この大きな矛盾に疲れたわれわれは、いつのまにか「死後の世界についてどう思う?」などと口にすることをやめてしまったのでしょう。

「死」というテーマの振れ幅の拡大

最新科学は「不死」を実現しようとしたり、「魂」を量子力学を用いて解明しようと試みる。
それは昔のようにSF小説の中の話ではなくなりました。
一方、墓地の不足や死後のSNSに関する問題、孤独死、終末期医療——

「死」について話すことほど曖昧模糊なことはないにも関わらず、それが内包する話題は拡大の一途を辿っています。
かたや最新科学、かたや孤独死……。

あるいは現代社会の格差にも原因があるのかもしれません。
「死」についてのなんらかのトピックを話し合うことで、そうしたことが浮き彫りになってしまう。
たとえば一方は遺産のことや著名な建築家が作った霊園施設について考えている。一方は墓じまいについてや孤独死を迎えてしまった際どうしておくことが最善なのかを考えている——

——で、あれば、たしかに「死」について話すことなどしないほうが賢明かもしれません……。

それでも「何か」を信じている

「死後の世界についてどう思う?」
そんなふうに訊いたら心配されてしまう。

とはいえ、みな心の中で「死後」に関する「何か」を信じているようです。
「死んだらおしまい。なにもなし」と口にする人ですら、言葉とは裏腹に「何か」を信じているに違いありません。

いや、そんなことはないのでしょうか……。

筆者は大人気なく日々「死」について考えてきました。
最近では「肉体の死/精神の死」なんて表題で記事も書きました。

ですが、みなはそんなことに関心はなく、もうとっくに「答え」を得てしまっているのでしょうか。

……とはいえ、それを訊ねることは叶いません。
なにしろ「死後の世界についてどう思う?」などと問うたりすれば、「何かあったのかな?」と思われてしまうのだから——