「わからない」ことを想う – 前編

「わからないこと」——知らないこと、新しいこと、難しいこと——そうしたことと向かいあうことは体力を要します。

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しかしその必要がある。そうしたことがわかりやすく立ちはだかっていた頃はまだ良かった。
昨今は、そうではないのかもしれません。

われわれはいま、容易に——より簡単なほう、よりわかりやすいほう、より身近なほう——を……、いや、容易にというよりも、むしろそちらのほうから近づいてくるのです。
そんな時代にあって、わざわざそれらを乗り越え「わからないこと」を選ぶのは頓狂にも思われかねません。

世界の老化

最新型のゲームと、幼少期に親しんだゲームが並んでいる。どちらで遊ぶか。
知らない用語の頻出する本とかつて愛読した漫画本が並んでいる。どちらのページを繰るか。

肩も凝るし、集中力も途切れがち。老眼もある。そんな状態で「わからないこと」と面するのはとてもつらい。

こうしたことを老化と呼ぶのかもしれません。いわば好奇心の衰退です。
ですが、現に歳を重ねているのだから仕方がないことでもあります。

この超高齢化社会。そこにいる人々が老化しているのだから、その国もまた、ひいては世界も老化しているのかもしれません。
「真実」かそうでないかよりも、「わかりやすい」か否か。
こうした世論のあり方を「ポスト・トゥルース」と呼び、昨今危惧されています。

だったら、「死」についてもまた「わからない、わかり得ない、誰も知らない」という「真実」よりも、「わかりやすい、感情に訴える」言葉がもてはやされることになるのでしょうか。
いや、もはやそうなりつつあるのかもしれません。

言葉の危うさ

「終活マガジン」では「死と言葉」について考えてきました。
時には哲学、時には文学。あるいは世界の死生観や古い習慣まで。

「言葉」は便利な道具です。しかし、ゆえに危険なものでもあります。

文字を持たない言葉

異文化から学ぶ「終活」⑩」ではケルト文化を扱いました。

その全貌はいまだに謎と神秘に包まれており、その大きな理由に彼らが文字を使って記録する伝統を持たなかったことが挙げられます。
そんなケルト文化において、その社会の最上層部に属し、精神的指導者であった存在に「ドルイド」があります。

ドルイドはありとあらゆる知識と技術を備えていたと言われます。ゆえにその修行は20年に及び、また世襲制ではなく、才能あるものだけが資格を得られたのだといいます。
驚くべきは、呪文や儀式の次第、医学、法律、そうしたあらゆることをすべて口承で受け継いでいたことです。彼らは文字を持ちません。

彼らは教えを文字にすることを正しくないと考えていたようです。
教えが民衆に伝わることと、志願者が文字に頼り記憶力の鍛錬を怠ることを危惧したからだそうです。

後者は、その記憶力の凄まじさは想像しがたいですが、意味はわかります。

では、なぜ教えが民衆に伝わることを恐れたのでしょうか。

後編へと続きます