「わからない」ことを想う – 後編

前編の最後に、古代ケルトの賢者「ドルイド」をご紹介しました。

書き文字を持たない文化のなかにあって、20年にも及ぶ修行であらゆる知識を記憶し、それを口承によって受け継いでいたのが「ドルイド」です。
カエサルいわく、彼らは教えを文字にすることを正しくないと考えていました。
志願者が文字に頼り記憶力の鍛錬を怠ること、そして教えが民衆に伝わることを危惧したからだそうです。

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「わからないこと」の矮小化

さて、教えが民衆に伝わることを危惧したのはなぜでしょうか。

ドルイドは秘儀や呪文なども扱いました。
こうしたことがあまり知られてはならないことなのは容易に想像がつきます。
その他に想像できることとして、物事の矮小化を畏れたのではないでしょうか。

日常の中で洪水のように「文字」を浴びている現代のわれわれには想像が難くないですが、断片的な情報というのは危険をはらんでいます。
細切れのままでは記憶しにくいため、無意識に「知っていること」で隙間を埋めてしまう癖がひとにはあるからです。
この時、物事の意味の矮小化が起こってしまいます。そしてそれは広まってしまうのです。

本来、難しいこと、「わからないこと」であることが、「わかりやすいこと」へと矮小化され世間に広まる。
このこと自体が問題ですし、さらにそれは「ドルイド」の地位をおびやかすことにもなるでしょう。

優れた人の間違い

現代のひとびとは、それ相応にこうした矮小化への警戒心を持っています。

しかし、時には優れたひとも、いや、優れたひとほど間違いを起こします。

「終活マガジン」ではハイデガーの著書、『存在と時間』を幾度か取り上げてきました。
20世紀最大の哲学者とも評されるハイデガーですが、彼は『存在と時間』の執筆後、ナチスへと入党し、そのことは彼の死後も論争を起こしています。

「わからない」ことをわかろうとし過ぎて、極端になってしまったということなのでしょうか。

筆者の想像に及ぶところではありませんが、利口なひとほど道を踏み外す、などというふうに言えば、なんとなく会得ができる気もします……。

「死」は「生」のなかには無い

さて、いつも不思議なのは、「死ぬとこうなる」ということを言い切る人の心です。
さすがにそれが難しい場合は、それぞれの「神」の名を挙げ「そうおっしゃっていた」とする。
そんなふうな不満を感じると同時に、物理学者が量子力学的観点からして魂も死後の世界もあり得ない、などと言うのもまた疑わしく感ずる。

とはいえ、ずっとそんなことにこだわっているのも草臥れる話です。
ほとんど諦めのように、「死」は「生」のなかには無い、そのことを受け入れ、そうした葛藤からの脱出のために何かを信じることを選ぶ人も多いでしょう。

そうした人々が生んだ知恵に「なんとなく、そうだと思う」というバランスがあるのではないでしょうか。
いわば、この国の大多数を占める死生観はそういったものです。

なにかを妄信するわけでもなく、「死後」を否定するわけでもない。

揺れ動きやすい

だからこそ、「終活」という具体的な取り組みを行う際には、そのバランスを保つのがなかなかに難しい。

葬儀、墓、遺産、そうした現実的なことのみに意識を向け、たとえば合理主義になってみる。そうしたことで「死」と向き合っている気分になる。

しかし、「死」の「不安」とは、本来、とつぜん、前触れもなくふと眼前に現れるものです。いきなりに孤独に苛まれる。
そうした時、それまでやってきた合理的で現実的なあれこれのことが突如無意味に感じられる。
そんな瓦解の仕方もあるかもしれません。

「わからない」ことを想う。

そんな難しいことを、この国では「なんとなく、そうだと思う」というやわらかな考え方で実践してきました。
このことは優れた叡智だと筆者は感じます。
しかし、同時に、それを成立させてきたのは、この国の豊かさと平和だったのかもしれないとも感じます。

前編にて、「ポスト・トゥルース」という言葉を取り上げました。
とてもあたらしい言葉です。

世界的に大きな変革にある時代のなか、われわれはこれまでのように「わからない」ことを想うことが可能でしょうか。

そのような問いを提言すると同時に、「終活マガジン」もまたその問いと向き合い続けたいと考えています。