訃報のあり方

先日、「「終活年賀状」ってなに?」という記事を掲載しました。

要するに、「年賀状は今年で最後とします」という挨拶を兼ねた年賀状を意味するのですが、ここで素朴な疑問が生まれます。

われわれは今後、どうやって訃報を知るのか。

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喪中はがきは、そうした役割を兼ねています。

著名人であればテレビやSNSなどで訃報が流れますが、一般人がそうした報せのためにSNSを活用することはそれほど一般的ではないでしょう。

新聞の「おくやみ欄」もまた訃報のための重要な役割を担っています。葬送にまつわる世相を見るのにはとても優れた掲載欄だと思いますが、周知のためのものとしては現代的とは言えません。

知人の死

当たり前のことですが、知人の死は衝撃的なことです。
どんな方法であっても、それは避けられません。
ゆえに、最善の形で知らせるべき人たちには知らせたい。

もちろん、年賀状が、喪中はがきが今後なくなるとは限りません。
あるいは、テレビやSNSがいつまでもあるとは限りません。

さらに昨今のいくつかの社会問題もまた、訃報のあり方を再考する必要を感じさせます。
たとえば、地方と都市部の人口格差。
地域のコミュニティ、人づてに届く範囲の報せ。そうしたものは今後失われていく可能性が高いと言えます。
あるいは孤独死——。

いまあるべき「訃報のあり方」。
それは存外に難しいものかもしれません。

受け手の気持ち

現代はたしかに連絡ツールの発達した時代です。
電話、メール、LINE、SNS……。
ですが、そうしたツールを積極的に利用しないひとも少なくありませんし、インターネットの普及による「コミュニケーション疲れ」などといった言葉も聞かれます。

そういったツールを好んではいないが、忘れているわけでも思い出さないわけでもない。
そうした距離感を持つ人も一定数いるでしょう。

たとえば同窓会。
そこで同級生の訃報を聞く。どうやら他の皆は何かしらの報せを得ていたようだ。
たしかに自分から連絡を取ることもなかったし、格別に仲がよかったわけではない。でも故人のことを思い出すことは時折あったし、元気にしているかどうか気にもかけていた。

上記のような悲しい出来事は、もちろんこれまでも多くあったことでしょう。
しかし、今後の「訃報のあり方」を想った時、そうした事態がもっと増えることが懸念されます。

社会の「終活」として

やはり最善の方法は「自身の訃報」について具体的に書き残しておくこと以外、無いのかもしれません。

家族だけの葬儀も増えています。
それを望むのならば、その他への友人知人への訃報をどうするか。遺族にはわからないことも多いはずです。

遺族の手間を減らすことを最優先とし、「終活年賀状」のように関係を整頓してゆくのもひとつの方法かもしれません。
あるいは独り身であれば、気を使い、誰にも知らせなくて良いと考える人もいるかもしれません。

しかし、本当にそれで良いのでしょうか。
訃報は、その内容からたしかに扱いの難しいものです。だからこそ、いっそ誰にも知らせず……、といった考えもわかります。

ただ、われわれはどんな時に「死」を想うか。
それは他者の「死」であることが多いのではないでしょうか。

然るべき形で「死」を報せること。

それはたとえ自分のためにはならなくとも、それだけで非常に有意義な、身の周りの、ひいては社会の「終活」になるのではないでしょうか。