2018総集編 ②シリーズ – 下半期

今年の「終活マガジン」では、ひとつの記事に収まりきらないものをシリーズとしていくつか掲載しました。

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どれもが深く、また多角的なテーマであるためシリーズ化に至りました。
本稿はそれらのイントロダクションです。

今回は下半期に掲載した記事を時系列に沿ってご紹介いたします。

下半期

●「ビデオゲームとエンディング

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8月に掲載したこちらの記事では、昨今の「ビデオゲーム」が内包する「死」への批評性について、また、世界随一の福祉国家である北欧諸国ではビデオゲーム開発が盛んなことから、福祉の充実とビデオゲーム開発の旺盛にはどのような関係性があるのか考察しました。

ビデオゲームから「死」を考える、と聞くと、どこか幼稚なイメージを抱かれるかもしれません。
ですが、昨今のビデオゲームには他の芸術作品に劣らない優れた批評性が隠されています。

9月には、
●「異文化から学ぶ「終活」⑩

として「ケルト文化」を扱いました。独特の死生観を持つケルトには「常若の国のオシーン」という「浦島太郎」にそっくりな民話が存在します。
どちらも「死後の世界」ではない不思議な世界へと旅立ち、戻った時にはたちまち年老いてしまいます。

また、ハロウィーンの原型となった「サウィンの祭」を行なっていたケルトの文化において、生と死はどこか境界が曖昧に感じられました。
「死後の世界」ではない「異界」という概念。
ケルト文化の持つ特殊な死生観をご紹介しました。

●「肉体の死/精神の死

こちらの記事は、あえて「死」を「肉体の死」と「精神の死」に分けることで、哲学的なテーマを具体的に考えてみようと試みたものです。
筆者自身が、「死」を「肉体の死」と「精神の死」に無意識に分けて考えていることに気づき、ただ、そのことは多くの混乱を招いているように感じ、あらためて考える必要に駆られて掲載したものです。

「死」が複雑さを持ってしまういちばんの原因は、人間に「精神の死」が訪れたのちも、しばらくはそこに「遺体」としてカタチが残ることにあるのではないかという仮説のもと、論考しました。

まとめ

冒頭でも述べましたが、シリーズ記事の特徴として、どれもが大きなテーマを取り扱っています。
それと同時に、確かなものをご紹介するというよりは、筆者自身も考えながら、といった体裁のものが多く、どれも明確なメッセージを発するには至っていません。

これらシリーズ記事は、読者のみなさまがそれぞれのテーマに興味を抱く契機に、あるいはそれぞれが「死」について考えるためのヒントとなればと思い執筆しました。
上記の概要説明から各記事に興味を持っていただければ幸いです。