歩みを止めぬために – ②

いつもと少し趣向を変えたエッセイ記事の第2回。

前回の記事の最後で、「言葉が通じない」というペットとの関係における問題について述べました。

今回は「言葉が通じない」——その対象をペットに限定せず考えていくところから始めたいと思います。

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死が近い人の発する言葉

以前、偉人の死の間際を描いた大著をご紹介した記事「偉人たちはどのように死んだのか – 『人間臨終図鑑』」を掲載しました。

死の間際において、偉人たちはどう振る舞い、何を言ったのか。
それは誰しもが今後迎える「死」を知るためにも、たいへん興味深いことです。

しかし、ふと想起したのは、「死を間近に見る人」の「感覚」、それをそうでないわれわれの「感覚」で見て理解できるものなのか? という疑問です。

いま、「死を間際にしている人」の話す言葉についての研究がわずかに進みつつあるそうです。

現実とそうでない場所との狭間

おそらくですが、医療の発達は昔よりもひとびとを「死の間際」に長く滞在させることになっているでしょう。
そしてその時、当然体力は衰えています。そのため、言葉を発するための肺活量も不足すると考えられています。

ゆえにそこから発せられる言葉は短く、時には単語だけのこともあるでしょう。
ただ、その言葉は健全な人が発するその言葉よりも様々な意味が込められているのかもしれません。
また、体力不足ゆえに、ちょっとしたことを言うのに数日単位の時間を要することもあるようです。

われわれの感覚からすれば、昨日聞いた「短い言葉」が、今日の「短い言葉」に続いているという発想はなかなかできないのではないでしょうか。

同時に、死が迫っているのですから、当然意識も混濁します。
そうした「死を間際にしている人」の言葉を紐解くには、やはり「ペット」と向き合うのと同様に、長時間の観察を要するのかもしれません。

何にせよ、向き合うには覚悟と時間が必要です。それでもきっと遺されたものには後悔が残るのです。

向き合い終えて

向き合い終える時、それはその対象が亡くなった時です。

われわれはその時、そこに大きな断絶を感じ、打ちひしがれます。

しかし、遺されたものの時間は「停止」していない。
「死」は、それに直面した人の時間だけを停め、遺されたもののそれを停止させるものであってはなりません。

考えてみれば、「死」にまつわる儀式の多くは、そうした知恵の具現化にも思えます。

次回はそのことを考えるところから始めます。

>>「歩みを止めぬために – ③