車椅子の自動運転は歩行なのか – 前編

前回まで、「歩みを止めぬために」という表題のエッセイ記事を4回にわたり掲載いたしました。

「歩みを止めぬために」——それはもちろん比喩表現で、「死」にまつわるさまざまな儀礼は、遺されたひとびとの「生」の歩みを滞らせない「仕組み」を潜在しているのだとそこで考えました。

今回は、比喩ではない「歩みを止めぬために」。
自動運転機能を搭載した車椅子の開発は着実に進んでいます。

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ぶらぶらする

またも「超高齢化社会」という言葉を述べることになりますが、具体的に言えばこの国の約14%の人は75歳以上の後期高齢者です。
そのおよそ半数は長時間の歩行を困難に感じているといいます。

長時間の歩行という表現は曖昧ですが、要するに特別な用事がなければ出歩くことなどしないと考えれば良いのではないでしょうか。

つまり「散歩」はしない。ぶらぶら歩かない。
それは現時点で、国民の14%の半数——7%——のひとの現状です。

今後、間違いなくこの数字は増加し続けます。あっという間に10%を超えてしまうでしょう。

もちろん、歩けないわけではないですから、用事があれば出歩くでしょう。
確かに、大抵のひとはわざわざぶらぶらとなど歩かない。

しかし、ぶらぶらと歩かないことと、それができないことは大きく違うように感じられます。

歩行とは

自動運転機能を搭載した車椅子の開発、それは今後増加し続ける介護費用や介護者の苦労を思えば吉報です。
もちろん、歩行が辛くなりつつある当人にとっても便利なものになるでしょう。

ただ、前述した「ぶたぶらと歩く」ということはやはり困難なままかもしれません。
さすがに頭で思い描いたように移動してくれる車椅子が登場するのはまだ先のことでしょう。

さて、筆者は「ぶらぶらと歩く」ということにこだわっていますが、家で仕事をしていますし、あまり出歩かないほうの人間です。
とはいえ、時折ぶらぶらと散歩をしたりはします。

何が言いたいのかというと、「目的地」に向かってただ移動するという行為は、ひとによっては存外に体力を要することだということです。
瞬間移動ができるのならばその方が良い、という類いの「移動」は、「移動」という行為自体に愉楽を内包していない。

もっと言えば、「用事」のほうからやってくるのであれば、どこにも行かなくて良いという考え方です。

「歩行」には「歩行」だけがもつ楽しみがあるのだろうと考えるのは、筆者がふだん率先して出歩くほうではないからかもしれません。
何気なく、日常として「歩行」しているうちは、気にかけることのないようなささやかな楽しみがそこにはあるはずです。

自動運転機能を搭載した車椅子の開発は素晴らしいものだと思います。
ただ、そうした「歩行」の持つささやかな愉楽の代わりにはならないかもしれません。

>>後編に続く