車椅子の自動運転は歩行なのか – 後編

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自動運転機能を搭載した車椅子の開発。
それは筆者に、ただ「歩く」ということを再考させる契機となりました。

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思いの外われわれは、あたらしい環境に馴染み、そしてすぐに忘れてしまうのです。

前衛映画の巨匠

2019年1月23日、映画監督ジョナス・メカスが亡くなりました。
日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、映画芸術が盛んな欧米においては映画史に名を残す偉大な監督だと考えられています。

彼の代表的な作品形式に、日常を日記のようにカメラで収める「日記映画」というスタイルが挙げられます。
いまでこそ、スマートフォンで簡単に動画を撮影できますが、ジョナス・メカスはフィルムカメラで日常を切り取り始めました。
簡単に動画を撮影できる現代においても、ただ日常を撮影しようと考えるひとは珍しいのではないでしょうか。

メカスのそうした視点には、詩的表現としての美しさと同時に失われることへの恐怖を感じます。
それも、注視しても見落としてしまいそうなささいなことの喪失への。

立ち返る

つい先日「歩みを止めぬために」という記事を掲載しましたが、それは立ち止まり、立ち返ることを否定した内容ではありません。

「天気が良いから、河原にむかって歩き始める」

それは、当人にとっても河原までの移動なのか——つまり河原に到着するつもりなのか——そのことはあらかじめわかっていることではありません。
ですが、
「目的地を河原に設定する」
ということは、それがすでに河原までの移動であり、河原への到着をあらかじめ意識するものです。

この小さな差異。とてもささいなこと。

自動運転機能を搭載した車椅子での移動に慣れてしまえば忘れてしまうかもしれないようなちょっとした違い。
ですが、その「違い」にはきっと「何か」重要なものが隠されていると思うのです。
特に、日常の小さな何かを広い集めるように見つめ直す「終活」の時節においては——

合理的で、経済的な発明。
その影で、同時にそうした小さな「何か」に想いを馳せることも大切なことではないでしょうか。