「終活」という言葉はすっかり浸透し、終活カウンセラーという存在や「終活」に関する講演会なども珍しくなくなりました。
とはいえ、それでもなお講演会などでは——「終活」とはなにか——を説明することから始めます。
そして、本人の尊厳と同時に遺族の負担を減らすための大切な取り組みだとそれは説明されます。
その通りです。
その通りなのですが、「終活マガジン」ではここ最近、ずっと「自分のための終活」を考えることが大切だという意志のもと、記事を掲載してきました。
その理由をお話します。
遺族のため
「終活」の具体的な活動——エンディングノートを始め、そこに記載すべき、相続、墓、葬儀の希望などの明確化——、それらはすべて遺されたもののためになる活動です。
面倒を遺さず、揉め事を起こさず。
こうした美徳ある意識に異論はありません。
しかし、そこに「終活」の意義のすべてが集約されてしまうのは、違うと思うのです。
言ってしまえば、「終活」を意識するひとはみな、誰に言われなくとも遺される人々のことを想い、考え、行動するひとびとです。そしてそのことが老後の新たな生きがいとなるひとも少なくはないでしょう。
ですが、どこか勝手と思われてしまいがちな「自分のための行動」、それを積極的に取ることもまた、遺されたひとびとのためになる、という考えも「終活マガジン」ではお伝えしたいと考えてきました。
自分のため
極論ですが、好き勝手に生きたひとほど、死後にわだかまりや悲しみを残しません。
「ああ、あのひとは勝手にやって、勝手に死んでいった」
そうした想いは、遺された人々にとって安らぎとなる場合もあるのです。
もちろん、そんな極端な例を手本としろと述べているのではありません。
ただ、「終活」という活動の意義を長期的に考えた時、
「両親は、われわれ子供のことを一番に想い“終活”をし、年老いてもなお自分たちの死後、遺される子たちについて悩み考え、死んでいった」
そうした感傷は、揺り戻しを引き起こしかねないのでは? という懸念があるのです。
つまり、それは、当人にとってはともかく、遺された者たちから見ての「良い最期」になるのか? という疑問です。
長い老後
すでにそうですが、老後はこれからもっと長くなります。
これからの時代を見据えた時、「終活」は自分のためのものであり、自分の「生」を楽しむ方法の模索や再発見のための活動であることを本分とすべきではないか。
これが筆者の考えです。
そのことで、老年においても健康状態を維持でき、また新たな生産性を発揮できるかもしれませんし、「終活」の良い姿、印象を次の世代に残せるでしょう。
なにより、「楽しく生きていた」という印象を遺されたひとびとに与えらえることは、たいへん素晴らしいことだと思うのです。
きっとここを訪れるかたもまた、ほとんどが無意識に「遺族のため」に行動してしまうやさしい方々でしょう。
だからこそ、一歩勇気を出し、「自分のため」の「終活」を始めてみるのはいかがでしょうか。