日本の死生観の未熟

神戸市須磨区に、余命の短いひとびとに最期の場所を提供するための施設として建設が計画されている「看取りの家」。
いま、その建設計画に近隣住民が反対運動を展開しているのだそうです。

一体、どういうことなのでしょうか。

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死生観の未熟

今回、この報道を知った筆者は少なからずショックを受けました。
「終活マガジン」に掲載し続けてきた記事は、いわばこうした「死生観の未熟」への警鐘でもあったからです。
ですが、ついにそれがわかりやすい形で表面化してしまった。

近隣住民の反対理由、それは以下の言葉に集約されそうです。
「日常的に死を目にするのはつらい」

昨年掲載した「弔いとデザイン」という記事で触れていますが、無宗教のこの国では、生活の中に「死に関する場所」を置こうとしたとき、デザインに頼らざるを得ない状況が訪れています。
特に「火葬場」などは、忌避される傾向が強かった。

そしていま、一部の人々にとっては、「ひとびとに最期の場所」にすらそういう意識は傾いてしまうようです……。

死から逃げ続ける

「死」を考えることができないがゆえに「死」から逃げ続ける。「死」を覆い隠す。
強いてこの国の死生観を挙げるとすれば、そういったものなのかもしれません。

しかし、すでに始まっている「多死社会」を前に、そうした態度で生活することはとても無責任なことです。
いまここに、この国の「死生観の未熟」が、いよいよ差し迫った問題として表れてしまったのではないでしょうか。

加速する「多死社会」を見据えて
こちらの記事では、そうした「死生観の未熟」にたいして、「終活」がその「教育」を担う可能性を持っているのではないかと指摘しています。

「日常的に死を目にするのはつらい」

反対運動を起こしている近隣住民は子供ではありません。「死生観」の「教育」は、この国では成されなかった。
そして、さらに上記の言葉は現状から目を逸らした発言です。

遅すぎたとしても

「死」はこれから、「必然的に」さらに日常的なこととなるのは明白です。

たとえ遅すぎたのだとしても、われわれはいまこそ、「終活」を通し「死」を考え、「死」を教え、「死」を考える方法を伝えていかなければならないのではないでしょうか。