宗教とテクノロジー – 前編

先月掲載した記事「歩みを止めぬために – ④」にて、ローマ教皇が「Click to Pray」という名の、祈りのためのアプリを発表したことに触れました。

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そこで以下のように私見を述べました。

体力的にあまり外出しない高齢の方が、人口の多くを閉める時代。
サービス業も宗教も、家にいるひとびとをターゲットにしなければならない時代なのでしょう。

言葉尻から少し意地悪がにじんでしまっていますが、現状を目の当たりにした時、こうした対応をするのは当然のことともいえます。
そもそも、宗教とテクノロジーのあるべき関係性とはいかなるものなのでしょうか。

宗教とメディア

いま、「宗教とテクノロジーのあるべき関係性」と述べましたが、ひとまずは「宗教とメディア」について考えてみましょう。

戦前にラジオ法話が人気となって以降、テレビ、インターネットなどにおいて、「宗教とメディア」は密接な関係を持ち続けています。
その中で大きな問題となったのは、やはり「テレビと宗教」の関係でしょうか。

「終活マガジン」では、この国は無宗教ゆえに考えなければならないことがあるし、また考えられることもあると考えてきました。
しかし、20世紀末の「テレビと宗教」がもたらした影響を見れば、その弊害のほうが圧倒的に大きいことがわかります。

世紀末のテレビ番組では「ノストラダムスの大予言」が大人気でした。
それに伴い、オカルト、スピリチュアル、オウム真理教をはじめとした新興宗教団体は、テレビという巨大メディアを使い、無宗教の人々の死生観に強い影響力を示しました。

無宗教ゆえに死生観が拙い——前回の記事「日本の死生観の未熟」で触れましたが、それは向き合わなければならない現実なのでしょう——、それは言い換えれば「判断基準」を持たない、頼りない、というようなことです。

そこに「別の真理」——それは視聴率であり、ひいては経済です——を持つ大きな力が加わってしまえば、悲惨なことにつながるということを我々はすでに知っています。

あたらしい世代

そうした経験があってか、21世紀、防衛反応のひとつとして「宗教への無関心」は根を深めます。それも、背景のわかりにくいインターネットというメディアにおいては、その警戒心は一層に強い。

「ローマ教皇が祈りのアプリを発表した」という報道に、どこか鼻白む反応をしてしまった筆者もまた、そうしたひとりなのでしょう。

しかし、そのままではどうにもならない。ただただ疑い深く、占い程度の軽度のものにばかり関心を寄せ、真に迫った影響を受けないように身構える。
日本人はこのままでは、「多死社会」と呼ばれる時代に、死生観を持たないまま放り込まれてしまうのです。

そこでどのようなことが起きるのか。考えればおそろしい想いです。
後編では、そうした時代背景の中、いわば「テレビと宗教」の弊害を受けなかった世代——若い世代——、そうしたひとびとの動きに希望を求めてみたいと思います。

>>宗教とテクノロジー – 後編