選択と決断の時

以前、「異文化から学ぶ「終活」②」という記事で『最期の祈り』という映画をご紹介しました。
終末医療の現場を映した短編ドキュメンタリー映画です。

今回もまた短編ドキュメンタリー映画のご紹介です。
『エンド・ゲーム: 最期のあり方』は2018年公開の作品。

『最期の祈り』と同じく舞台はアメリカのカリフォルニア州の病院。偶然というよりは、2015年に「消極的」安楽死——日本で言う「尊厳死」——がそこで認められたことがふたつの作品に共有された背景なのかもしれません。

葛藤の時間

『最期の祈り』を観た時にも感じたことですが、現代における「死の間際」とは「死」を迎える当人とその近親者に数多くの難題が突きつけられる時です。
それは「死のカタチ」に医療や科学が選択肢をもたらしたからですが、だからこその難題であり、「正解」と明言できるような答えはどこにもありません。

肉体的に困難な時にあって、精神的にも厳しい状況を迎えるわけですが、「最期の時」に選択肢を持つということは、そうした辛さに備えておかなければならないことを映画は教えてくれます。

たとえば「言葉」。
「終活マガジン」では「死と言葉」というカテゴリーを設け、それについて考えてきました。
『エンド・ゲーム: 最期のあり方』に登場する言葉は、本人、近親者、医療従事者、そのどれから発せられるものもある種の洗練を身につけていました。
だからこそこうしたドキュメンタリー映画の被写体という重責に耐えられているのだと言えますが、とはいえ、それは実はとても難しいことだと思います。

「死」という誰にも未知なものに関して、言葉を交わし、それが現実に反映される。
その時間にふさわしい「言葉」を獲得するには、それ相応の人生を過ごしてこなければならなかったでしょう。

選択と決断

そして困難な「選択と決断」に向かい合える「言葉」も会得していなければなりません。
「最期の時」というのは、それほど悠長ではないことを映画は伝えます。その時になってからでは、そうした状況に向かい合うための「言葉」を準備するのは叶わないでしょう。

われわれは、『エンド・ゲーム: 最期のあり方』で描かれる「最期の時」を観て、そこには映っていないそれ以前の彼らの時間、暮らし、行動を想像する必要があるはずです。
まさに、彼らはある側面での「終活」を行ってきたひとびとなのだと感じました。
「終わり」という、「選択と決断の時」「葛藤の時」「困難の時」「悠長ではない時」に、迷いながらも立ち会える在り方を彼らは人生の中で会得してきた。

それは近年、この国でもてはやされてきた「終活」——遺産のこと、墓のこと、そういったあれこれ——とは少し毛色の違う「終活」かもしれません。しかも、日本人には不得手な「終活」にも思えます。

ですが、実際の「最期の時」に求められるものは、そうした活動によって蓄えられた力でしょう。
ひとびとの力強い「死」への一歩を映画を通して観てもらいたいと思います。