大きすぎることから死生観を……

今回、ごくごく当たり前な気付きを得たというか、いまさら何を言うのか、というような内容の記事でお恥ずかしいですが、少しお話を聞いてもらえますでしょうか。

やはり、日々いろいろな報道を過剰に摂取してしまっているのか、感覚が麻痺してしまっているような気もしてはいるのです。

とりあえず、下の動画をご覧ください。

大きすぎる

昨年、動画に登場する巨大な牛をテレビなどでご覧になられた方もいると思います。

高さは194センチ、重さ1.4トン。
ニッカーズと名付けられたその巨大な牛は、オーストラリアで放牧されており、「おそらくいまも」なお生きています。

おそらくいまも——というのは、この巨大な牛ニッカーズがニュースとなったきっかけが、食肉処理業者から「大きすぎる」と言われ、食肉となることを免れたという、ある種の笑い話となったことだったからです。

「このまま、幸せに暮らすことになるだろう」

これは飼い主、つまり牧場主の言葉でした。

冒頭でごくごく当たり前な気付きと述べましたが、大きすぎることから食肉処理施設の設備を通り抜けられなければ、食肉にはならない。
食肉にできないのであれば、殺す理由はない。
ならば、幸せに暮らすことになるだろう。

至ってシンプルな、家畜を生業とするひとの言葉に「ああ、そうなのか」と筆者は感じてしまったのです。
もう少し詳しくお話しましょう……。

家畜とは

……つまり、食肉とならないのであれば、ニッカーズは不用であるどころか、邪魔なのだろうと直感的に筆者は思ってしまいました。
大きすぎる彼は、餌もほかの牛以上に食べるでしょう。殺処分されてしまうのだろう、と。

「このまま、幸せに暮らすことになるだろう」

なにも、牧場主は殺生を営みとしているわけではないのに。
彼らはひとが食べるために飼育しているのです。食べられない牛はただ生き続けるのです。

なぜこんなに当たり前のことに気付きを得てしまったのか……。

もしかすれば、いまもっとも真っ当な死生観を日々の中で育んでいるのは、放牧や牧畜などを生業としているひとびとなのかもしれません。
この件に関しては、現代の農業学校における教育などを含め、あらためて取り組みたいテーマだと筆者は感じています。

本記事は、上記のような朴訥な内容となってしまいましたが、家畜というテーマの続報をお待ちいただければと思います。