壁となる死刑制度 – 後編

前編では、日本の死刑制度が壁となり、自衛隊とオーストラリア軍の防衛協力締結が停滞しているとの報道に触れました。

2ad064c465b5c2e3101362142c6c496b_s

「安楽死」と「死刑」

ところで、「終活」と「死刑制度」になんの因果があるのか?
そう感じられる方もいらっしゃるかもしれません。

これからの「終活」を想う時、「終末期医療」、「多死社会」といった言葉を並べるだけで、安楽死——「消極的」安楽死=尊厳死——の問題が重要なトピックのひとつだということは歴然としています。

そしてそれは、人が人の「死」を選択する、という意味で、「死刑制度」を考えるための思考と近しいものがあるのです。

また、「死刑」という極刑とも称される極限の刑を無視して、社会的に生きることは困難です。
そしてその廃止は「安楽死」の制定と同様に21世紀に入り世界的に活発となっている。

これらのことから、「安楽死」という、自分自身では迎えられない「死」を考えるにあたり、いま存在する「死刑制度」を無視することは不自然なことではないでしょうか。

「死刑」を考える

筆者自身、「死刑制度」について長く考えてきました。
ですが真剣に考える、その契機となったのは、ノンフィクション作家である森達也の著書『死刑』を読んでからのことです。

shikei

そしてその中で、「賛成」「反対」だけで「死刑制度」を考える限界、つまり倫理と論理の限界を感じ、「死刑制度」を考えるうえで「情緒」が必要不可欠なものなのだという気付きを得ました。

だからこそ、このことを考えるにはそれぞれが「死生観」を持つ必要があり、それは同様に「安楽死」を考えることにも必要不可欠なものなのです。

居心地の悪さ

筆者の正直な想いとして、「死刑制度」を抱えたままのこの国では、その執行とその報道のたび——近しいところでは、松本智津夫死刑囚への刑の執行です——自分が自分に試されているような居心地の悪さを覚えます。

お前はそれで良いのか、と。
この刑を執行しているのは、誰でもないこの国に生きるすべてのひとなのです。

そんなお前は、「安楽死」を望むのか。だとすれば、なぜ?——

我々は必ず、近い将来、どちらにしろ「死刑制度」という壁を取り払う必要に駆られるでしょう。
すでにいまは、その準備に取り掛かるべき時なのかもしれません。