「コミュニティナース」から考える終活 – ③

「「コミュニティナース」から考える終活」と題した連作記事、その第3回です。

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前回、「既存の医療環境への疑問を持った複数の個」がその発端となったと述べた「コミュニティナース」。
そのことは、「コミュニティナース」の大きな特徴へと繋がりました。

社会実験

それぞれが、つまり「個人個人」が常識に違和を感じ、さらに危機感を覚え、世の中を鋭く観察していたことから動き出した「コミュニティナース」。
「ここではこうする」という枠組みから抜け出せる人々が集ったからこそそれは成り立ちました。

それは非常に困難なことのように思えますし、実際そうだったでしょう。

筆者はこの頃、「終活」について考える時、いつも同じ高い壁の前で立ちすくみ、さて、どうあるべきなのか、と考えあぐねます。
国の福祉制度はどうあるべきか、墓や葬儀の今後の形はどうあるべきか、我々はどうあるべきか……。

「どうあるべきか」

そうした思考からは、楽観視によってしか未来を描けないのがこの国の現状です。
つまり、これがこうなり、こうなったら良い、という理想を描くのが関の山。
いまのこの国がはらむ、医療/高齢化/人口格差における複合的問題は、机上で、論理だったステップを踏むことで解決の糸口を探れるようなものはとうになかったのです。

コミュニティ

矢田さんは「コミュニティナース」の活動を、たびたび「社会実験」と称します。
島根県が矢田さんの地元だった。だからその社会実験はそこで始まりました。

「どうあるべきか」では、つい足並みを揃えた「面」での対策に思考が向かいがちです。
行政は、町は、我々は……と。
みなが一斉に動かなければ、「どうあるべきか」で描いた理想にはたどり着けません。

「こうしたい」がある人——矢田さん——が島根県にいた。
そこで生まれ、暮らしてきたから。
それは「点」です。
そしてその点から発せられる活動は他の「点」を呼び寄せました。

「コミュニティナース」という言葉を考えるうえで、「地域社会」の意だけではない、「点」と「点」が繋がってゆくことで可能性が広がる——そういった意味での「コミュニティ」——の重要性は特筆すべきものです。

そうした繋がりもまた、「どうあるべきか」ではなく「こうしたい」が生み出したもの、「こうしたい」だったからこそ生み出せたものなのかもしれません。

第1回の冒頭で「話題が様々な視点のものへと移ろいつつ進行する記事となる」とお断りしましたが、「コミュニティナース」は明確なヴィジョンを描き、そこに突き進んでできていった活動ではないのです。
ゆえに、偶発的な出来事、「こうしたい」が呼び寄せた出会い、それらが幾重にも重なります。
そしてそのことにこそ筆者は「可能性」を感じました。
そのため引き続き冒頭の宣言通り話題が転がりながらの筆致となりますが、いましばらくお付き合いください。

さて、そんなわけで次回は「どうあるべきか」では見えてこないこと、「こうしたい」がある個人が他者を巻き込み「試す」ことで見えてくること、そんな「実験精神」、あるいは「フィールドワーク」を重要視した取り組みがいかに重要かを述べることから始めます。

>>「コミュニティナース」から考える終活 – ④