「コミュニティナース」から考える終活 – ⑤

「「コミュニティナース」から考える終活」と題した連作記事、その第5回です。

今回は「コミュニティナース」が抱える大きな問題のひとつ、「わかりにくさの問題」について触れることから始めます。

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わかりにくさの問題

さて、「終活」という言葉がもたらしたものは大きいと言えるでしょう。
ですが、その弊害についても筆者は感じますし、「終活マガジン」の記事の中でもたびたび口にしてきました。

これは、第1回の冒頭で述べた、

「https://community-nurse.jp/」にて、その内容は次のように説明されています。

いつも地域の中にいて〝健康的なまちづくり〟をする医療人材

どことなく抽象的に感じられる説明ではないでしょうか。
ですが、そのことは「コミュニティナース」の欠点でありつつも利点であり、また、「コミュニティナース」という存在を言い表すのに(いまのところ)もっとも適したものなのです。

における「欠点でもあり利点でもある」ということに通じます。

いまでこそ定着した「終活」という言葉ですが、「そもそも「終活」って何?」と問われてしまえば、「こうしてこうして、こうすれば終活です」というように具体的かつ明確に答えることは難しいでしょう。
また、だからこそ「あれもこれも、言ってしまえばぜんぶが終活」という濫用も起きてしまいます。

ですが、それと同時に、具体的かつ明確でないからこそ筆者はこれまで、「終末期医療」や「ペットの死」、「多種多様な異文化」「現代的社会問題」についても「終活」という言葉を用いて言及することができました。

「ここからここまでが“それ”」という線引きが無いということ。

それは、個人個人が“それ”を真剣に考えることによってはじめて有意義となります。

裾野を広げるために

とはいえ、筆者は「終活」についての記事を書きつつ、これは決して「終活」を意識しているひとにのみ有用な記事ではない、という思いもありました。
ふだん「終活」に意識を向けている人にだけ届く言葉では、その裾野を広げる効果を期待できません。

「終活? 私には関係ない」

そんなふうに、「終活」という言葉があるからこそ、はじめの段階で弾かれてしまうこともある。

「コミュニティナース」はフィールドワークを行うからこそ、そうしたことにより敏感でした。

最終回ではそうした言葉、名称が孕む危険性をお話するところから始めます。

>>「コミュニティナース」から考える終活 – ⑥