「コミュニティナース」から考える終活 – ⑥

「「コミュニティナース」から考える終活」と題した連作記事、その第6回です。

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名称の問題

前回の末尾にて「コミュニティナース」、あるいは「終活」という名称、呼び名の弊害について述べました。

これはとても難しい問題です。

はじめての場所に出向けば、まず名乗ることから始まるでしょう。
その際、簡単な自己紹介として職業を述べることは一般的です。
「私は看護師」です、と述べれば、「ああ、病院勤務されている人なのだな。このあたりではあそこの病院かな」などと認知され、そこに摩擦はありません。

「コミュニティナース」に立ちはだかる最初の障壁はそこにあります。

はじめに「コミュニティナース」という「よくわからないもの」として名乗るか、あるいは安心感を与えるために「看護師」と名乗るか。
今後その場所で「コミュニティナース」というフレキシブルな活動を行うにあたり、余計な先入観を与えることは大きなリスクでした。

また、特に「コミュニティナース」は高齢者の多い地方へと着任することが多く、「よそ者」+「よくわからない横文字の肩書き」は出端をくじくに十分です。
だからといって「看護師」と名乗ってしまえば、後々「よそ者の看護師が、出過ぎたことをしている」とも捉えられかねない。

さらに初対面のタイミングは、前回とりあげたフィールドワークの実施の前のこと……。

つまり、とにかく人対人のコミュニケーションで突破していくしかない、という、システマティックには決して構築できないスタートを「コミュニティナース」たちはそれぞれのカタチで乗り越えなければならなかったのです。

だからこそ「コミュニティナース」には、それぞれの物語が存在します。

それらは『コミュニティナース ―まちを元気にする“おせっかい”焼きの看護師』の中で多くの紙幅を割き紹介されていますので、ぜひお読みいただきたいです。

「終活」という名称とその未来

本来、「終活」もまたその土地ごとに、さらには個人個人に沿ったものが必要なはずです。
ですが、「終活」とは、生前整理に代表される具体的かつ事務的作業の総称、という印象がすでにあり、そのことがその可能性を狭めているように筆者は感じていました。

本当に重要なのは、それぞれが「死生観」を描けているか、より詳細に「自身の死」を意識できているか、「理想の死のカタチ」が描けているのならば、その前にどんな障壁があるのかを知っているか、そういったことを学ぶことにあるのだと思います。

「コミュニティナース」が今後発展してゆけば、それは必然的に「終活」とシームレスに繋がる活動となるはずです。
そしてそうなれば、ふたつは相互作用し、可能性は大いに広がるでしょう。
そして繋がり作用しあう活動はより多いほうが良い——。

筆者の想う「幇助の時代」への足掛かりは、きっと「個」から始まり、「人対人のコミュニケーションで突破」していくことからしか始まらないのでしょう。

それはとても難しいことですが、この国がいま抱えている問題の大きさを真摯に受け止めるのならば、それぞれがそれぞれのやり方でその困難と向かい合うしかないはずです。