「完全なゼロ」への想像力

みなさんは宝くじを買われたことはありますか?

筆者は過去何度か、自分で数字を選ぶタイプのものを購入したことがあります。
それは、なんとなく自分の意思を反映できるもののほうが良い、という、当選確率においてはなんの効果も無い思いからですが、そうすることでハズレてもどことなく納得がゆき、時折思いついたように買っても手軽に楽しめるものでした。

その他にも、サッカーくじや年末ジャンボなど、宝くじの種類は様々。

それだけ広く受け入れられている宝くじですが、それはなぜなのでしょうか。

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ゼロではない

それはなぜ、などと言いましたが、もちろん当選すれば高額の金銭が手に入るからです。
そしてその確率はゼロではない。

さて、筆者はこの「ゼロではない」ということがどういうことなのかが気になりました。

以前、年末ジャンボなどの大きな規模のくじで一等に当選する確率についてこんな話を聞きました。

北海道のどこかに野球ボールがひとつ落下してくる。それを北海道のどこかで直立し待ち受け、そのボールを頭頂に受ける。
その確率が、宝くじ当選のそれである。

この話をきいて、みなさんはどうお感じでしょうか。
「ありえなくはないのでは?」と思われる方もいるのではないでしょうか。
なにしろに世の中には「雷に七度打たれた男」もいるくらいです。

ましてや「実際に当選した」ひとは(おそらく)毎回いるわけです。
「ありえなくない」わけがないじゃないか!

とにかくゼロではない

とはいえその確率は、ほぼゼロなのです。
ですが、「完全なゼロ」といっては嘘となる。
この揺らぎは「死生観」にも通ずるものがあるように思います。

つまり、「死」を「完全なゼロ」と思うか否か。

亡くなった人と会いたい、話したい。
ひとは誰しも大切なひとを亡くす時がきます。その時、こんなふうに想うのは当然のことです。

ひととは、元来楽天的な生き物なのかもしれません。
幽霊や幻となって、あるいは夢の中で……。そのような想像をする。そしてそうした想いを描いたフィクションは時代を超え数多あります。

もちろん、本当にそうなるなんて本気で思ってはいない。
だけど、万が一、宝くじに当選する程度の確率で、そんなことがあってもおかしくはないじゃないか……。

完全なゼロ

「死後」を「無」とする宗教は珍しいのです。
いわゆる唯物論の考え方ですが、もともとのユダヤ教はそうした死生観を持っていました。

ですが、大抵の宗教では「死後の世界」が存在します。
古くから、ひとは「完全なゼロ」を受け入れることが難しかったのではないでしょうか。

故人の心臓が止まり、遺体を火葬し、そこから骨を拾ってもなお、どこかで会えると思っている。

ひとつ確実なことが言えるとすれば、亡くなったひとは、かつて生きていた。ただ、いまはもういないだけで、時間が不可逆だと誰が決めたのだ。

願いにまつわる想像力は逞しく、決して可能性はゼロにはなりません。
そのことを優れた想像力と捉えるか、「完全なゼロ」を描けない劣った想像力と捉えるか。

案外と、こうしたこともまた「死生観」を考える水端となるのではないでしょうか。