「死」の値段

「終活」の内容を大きく二分するとすれば、「金銭が絡むこと」と「その他」ではないでしょうか。

「終活マガジン」では後者、つまり「死生観」や「倫理」の問題を積極的に扱ってきましたが、それらと「金銭が絡むこと」は当然のこと無関係ではありません。

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死ぬにはお金がかかる

現代において「死ぬ」ということは、多額の金銭が絡みます。
高齢化により、収入がなくなってからの人生は長く、そしてその間にかかる医療費は増える。
「終末期医療」や「安楽死」については、「死生観」や「倫理」を軸に考えたいですが、「医療費」という視点も無視できないのが現状でしょう。

そして「死」を迎えた後、この国の一般的な流れであれば、仏式の葬儀の費用とお布施、墓などの費用、あるいは遺産のことなど「金銭が絡むこと」は山積みです。

「死」について真剣に考える以前に立ちはだかる「金銭」のことで手一杯。

まずはその現状について考えてみる必要があるのかもしれません。

見直される「死の値段」

そんなふうに立ち返った時、そもそも葬儀は必要か、お布施とはなんなのか、安価な合葬墓で十分ではないか、そんなふうに考える方が増えているようです。
「金銭」という視点で見れば、そうした疑問を感じ、考えをあらためることは簡単です。
なにしろ、そのほうがお金がかからない。

ただ、その視点には「死生観」は欠落しており、行き着く先は——法に触れずに安く死ぬことができればそれで良い——ということになるでしょう。

「値段」よりも「想い」を前景化させる

バブルに代表される好景気の時代、「金銭」という視点は「世間体」の背後に隠れていました。
立派な葬儀、立派な戒名、高価な墓。
乱暴なことを言うようですが、金銭的に無理なく揃えられたからこそ、それはそこにあっただけではないでしょうか。

つまり、本質的にはなにも変わっていないのです。
金銭が多くある時代は豪華、そうでなくなれば質素。
「死」のカタチの変化がそれで良いのか、甚だ疑問です。

最期までこの世の「経済」という巨大な仕組みに振り回される必要はないはずです。
そのためには、自らの「死のカタチ」をしっかりと思い描く必要がありますが。

「お金」に負けない「死生観」を、われわれはこれからどのようにして手に入れれば良いのでしょうか。

本当の意味での「終活」は、そうした「死生観」を手に入れて初めてスタートを切ることができるのだと筆者は考えます。
浮世で得た金銭という代物を、どんなふうに「死のカタチ」に費やすか。

そんなふうに思えた時、初めて「死」はその「値段」よりも「想い」を前景化させることができるでしょう。

後世のことを考えた時、そうした方向へと舵を切るチャンスを「終活」という言葉とともにいまの我々が手に入れたのだとすれば、真摯にそうした取り組みを行うことは、いま、我々に与えられた責務ではないでしょうか。