違法であるということ

過去四回に渡り、「死と生」とその「価値」のあり様について考えてきました。

今回、「金銭」以上に強い拘束力をもつ「法」について考えるべきだと思ったのは、昨今の「死と生」を考えるうえで避けられない問題「安楽死」と「死刑」は、法によって制御されているからです。

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違法であるということ

価値観という意味では「違法であること」をどう捉えるのかは難しいことであり、それは「安楽死」と「死刑」が抱える問題に直結しています。

不幸にも時折起こる禍々しい事件。
殺人の被害者遺族が毅然にも記者会見を開くことがあります。

筆者は過去に何度か、テレビ放送などでそうした被害者遺族が加害者に「極刑を望む」という意の言葉を聞いたことがあります。

当然、そうした言葉は世間に同情的に受け入れられますが、これは「死刑」が法で認められているからでしょう。
また、「死刑判決を」というよりも「極刑を望む」という言い回しが使われる場合が多いのは、「死刑」という言葉に潜在している暴力性に反応してのことだと筆者は想像してしまいました。

さて、「死刑制度」が廃止されている、あるいはもとより無い司法権で「死刑を望む」という発言をした場合どうでしょう。
いわば「違法」を望む被害者遺族の言葉を、世間はどこまで同情的に受け入れられるでしょう。

安楽死は違法

いま、積極的安楽死はこの国では違法です。

いくら絶望的な未来しか想像できない状況——治療困難であり、症状が悪化の一途を辿るな難病患者など——にあっても「積極的安楽死」は行えず、同様の行為を自らが試みれば「自殺」となり、他者にしてもらえば、その他者は「殺人」の罪に問われます。

それがなぜかといえば、それが「違法であるから」。

現在、他国からの積極的安楽死を受け入れている国はスイスのみです。
いま、そのスイスで「積極的安楽死」を施している民間企業には日本からの希望者が増えているといいます。

なぜなら、そうすれば「違法ではないから」。
しかし、そうして「死」を迎えたとしても、遺体はもちろん遺骨を日本に持ち帰ることはできません。

そしてそのようにスイスで「積極的安楽死」を迎えた遺族は、この国の他者にどのようにその死を語ることができるでしょうか。

人の「死」は社会的意義も大いに含みます。
この国で行えば「違法であるということ」を海外で行った。
そのことを世間はどう受け止めるでしょうか。

金銭と法がすべてではない

当然ですが、ひとびとの価値観を作り出すのは金銭と法がそのすべてではありません。

しかし、それに匹敵する価値観、死生観のないこの国においては、その力は強大すぎるようにも感じられます。

我々は「死」から逃れることはできません。
だからこそせめて、そのあり方には自身の考えを反映させたいと筆者は想います。
そして、その想いこそが死生観に繋がるのではないでしょうか。