全四回にかけて「在宅死」の現在について考えるシリーズ記事。
今回がその最終回です。
前回、「在宅死」に向け、当人も近親者も前向きに準備しながらも、「死」が眼前に迫った際、看取る側が突如その恐怖に耐えきれず救急車を要請するケースが後を絶たないことをご紹介しました。
果たして、これを「問題」と考えるべきか。
で、あればその解決法とは?
最終回ではそうした内容を扱います。
現場の混乱
昨年、「「死」をめぐる現場の混乱」という記事を掲載しました。
「多死社会」が訪れているいま、救急の現場では混乱が起きています。
患者側から心肺蘇生を拒否する意思を示されたことのある消防本部が、全国の半数を上回ることが総務省の調査でわかったのです。
現状、消防法では救急搬送や心肺蘇生などを救急隊の業務と定めているものの、蘇生を拒否された際に関する規定はありません。
つまり、突然の「死の恐怖」に混乱し近親者が救急車を要請したものの、その到着時には心が落ち着き蘇生を拒否したとすれば、救急隊員は従うべき基準を持たず、混乱してしまうのです。
こうした観点からは、これは「問題」といって差し支えないでしょう。
些細な問題では決してありません。
ですが、また別の大きな視野で考えた時、ほんとうの「問題」は、「救急車を呼ばずにはいられない」われわれの死に対する想像力の欠如にあるのではないでしょうか。
問題の解決
救急現場における「問題」に関しては、救急隊員がならうべき規定の制定が急務です。
これについては、社会的議論も当然必要でしょう。
では後者の問題——われわれの死に対する想像力の欠如と在宅死の関係——はどうか。
本シリーズの第二回で以下のように述べました。
ところが「積極的安楽死」はおろか「消極的安楽死」についてもさほど活発な議論が行われていない。
その足並みは両義的ではなく、経済的観念に大きく傾いたまま進み始めているのです。
後者の問題は引用した内容と直結します。
経済的な理由が先行してしまえば、こうした問題は避けられません。
今後、われわれは経済的な理由が先行したその場しのぎの対応を繰り返しながら、2025年、2040年を迎えることになってしまうでしょう。
なにしろ、いまから「死」を身近に感じろ、といっても、それは無理な話だからです。
だからといって、諦めて良い問題ではない。
机上の空論であっても、やはりわれわれは「死」をもっと近くに感じる努力を怠ってはならないと筆者は考えています。