『マクベス』と死生観 

〜神の祝福を殺した男⑥

戯曲『マクベス』のもうひとつのハイライトは、夫人のそれと呼応するようにマクベスみずからの手によってもたらされます。
マルカム率いるイングランド軍が侵攻してきている最中、夫人が亡くなったという報せを聞かされたマクベスの独白は、全シェイクスピア作品の中の名台詞の中でも白眉です。

何も今死ななくてもよかったものを。
そう聞かされるにふさわしい時がもっとあとにあったはずだ。
明日、また明日、そしてまた明日と、
記録される人生最後の瞬間を目指して、
時はとぼとぼと毎日歩みを刻んで行く。
そして昨日という日々は、阿呆どもが死に至る塵の道を
照らし出したにすぎぬ。消えろ、消えろ、束の間の灯火!
人生は歩く影法師。哀れな役者だ、
出番のあいだは大見得切って騒ぎ立てるが、
そのあとは、ばったり沙汰止み、音もない。
白痴の語る物語。何やら喚きたててはいるが、
何の意味もありはしない。

「明日、また明日、そしてまた明日」の件に由来して、この場面を「トゥモロー・スピーチ」と呼称します。
このスピーチの中でも、「人生は歩く影法師。哀れな役者だ」の件は重要です。シェイクスピア作品の中でこれに類似した台詞が、実はもうひとつあります。喜劇『お気に召すまま』第二幕第七場のこの台詞です。

この世界すべてが一つの舞台、
人はみな男も女も役者にすぎない。
それぞれに登場があり、退場がある、
出場(でば)がくれば一人一人が様々な役を演じる、
年齢に応じて七幕に分かれているのだ。

〜松岡和子訳『シェイクスピア全集15 お気に召すまま』ちくま文庫、2007年6月

これは「世界劇場(theatrum mundi:テアトルム・ムンディ)」という思想で、エリザベス朝ではよく知られている考え方でした。人間の尊厳よりも、逃げられない運命の大きさを甘受せよという、一種の諦念感の形として広く流布していたのです。
人生という長い旅路におちる影は、常に旅人につきまとい、最後はつかまえて黄泉の国へと連れて行く。人生は、所詮死から逃れ続けるだけの道筋だと考えると陰鬱とさせられますが、この時代は特に疫病の影響などもあって平均寿命がことに短かったため、この思想は多くの人に受け入れられていたのです。
『マクベス』という作品が、シェイクスピアが記した作品の中でも傑作と言われる理由のひとつは、夫人の「夢遊病の場」と、間違いなくこの「トゥモロー・スピーチ」です。人間の寿命が、すでに燃え尽きそうになっているろうそくのイメージとぴたりと重なる。イメージは非常に幽玄的ですが、命の儚さを思うと背筋に寒いものが走ります。
『マクベス』はシェイクスピアが亡くなる10年前に書かれた作品です。

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