ドラマ「チョコレートの箱」と死生観 

〜甘いものには毒がある?②

※このシリーズは物語の核心部分に触れていることがあります。作品を未読・未見の方はご注意ください。

42dab08eda309530da483734c2c3fa56

ポール・デルラール(演:ジェームズ・クームズ)

ドラマの冒頭部分は非常にドラマチックです。ベルギー市内の高級住宅地、雷雨の音を搔き消すかのように、賛美歌を思わせる悲劇的なオルガンの音色が響き渡ります。
家主の名前はポール・デルラール。美しく聡明な妻マリアンヌと、敬虔なカトリック教徒である母マダム・デルラールと暮らしていました。激しい雷雨に見舞われたこの日の夜、若い夫婦には似つかわしくない口論が家中に響き渡ります。寝室を飛び出す妻をポールは追いかけますが、ここで突如女の悲鳴と鈍い音。マリアンヌは足を滑らせ、階段から転げ落ちてそのまま亡くなってしまいました。妻の死に顔を他人事のように確認するポールと、そんな息子を驚愕の眼差しで見つめる母親との対比が、この事故が単純なものではないことを仄めかしています。
事故から2年後、デルラール家で開かれていた晩餐会は異様な雰囲気に包まれていました。食卓を囲んでいたのはポールと母マダム・デルラール、亡き妻マリアンヌの従姉妹ヴィルジニー・メナール、ポールの年上の友人である貴族サン・タラール伯爵、マダム・デルラールの友人であり相談役のガストン・ボージュの5人。食事が進む中、ヴィルジニーが、ポールが議会で推奨しようとしていた新言語法に話題をふったことで雰囲気が険悪になります。この法案はポールに言わせると「陸軍の号令にフラマン語を併用する」という試験的な意味合いのもののようですが、現実は大きく違っていました。
ベルギーは多言語国家です。ネーデルラント連合王国から独立したのは1830年という、いち国家としての歴史はまだまだ新しい国ですが、そのためフラマン語(オランダ語)を母語とする住民と、フランス語(ワロン語)を母語とする住民との間の対立問題を抱えていました(ポール曰く「北のフランドルと南のワロンの対立」)。国家独立の際に主導権を執っていたのはフランス系だったので実質的な公用語はフランス語でしたが、社会的地位の低いフラマン系住民のほうが人口比率で優っており、19世紀にかけてフラマン語の地位向上を求める運動が続いていたのです。事実1898年には法律上フラマン語がフランス語と同等と認められます。
ですが、以前として教育機関や軍隊ではフランス語が唯一の使用言語であり、教会の司教たちもフランス語に固執していたのが現状でした。もともとフランスは強度のカトリック国家。その流れを汲んで、フランス系のベルギー国民がフラマン語に抵抗感を示し、教会の地位を守ろうとすることは想像にかたくありません。
そんな複雑な状況の中でのこの新言語法の施行です。政治家が試行的措置を匂わせることを口にするのがいかに上っ面だけのものか、我々は嫌という程知っています。
しかも歴史的に、この後ベルギーは非常な苦境に立たされます。ドイツに蹂躙され、ポワロをはじめとする多くのベルギー人が亡命を余儀なくされるのです。
ポールの言い分としては、フラマン系とフランス系との争い自体が負の遺産で、そんなことにとらわれていては国の繁栄はますます遠くなる。フラマン語を公用語にすることこそがベルギーの未来のためになるということなのですが、ボージュが穏やかに諌めているように、人間はそう簡単に変われるものではありません。ましてや教会派は長く権力を持ってきた独自の階級層です。彼らの意志をないがしろにすることは、本末転倒で国民の神経を逆撫ですることになります。マリアンヌはこのことを心配し、亡くなる前にポールを説き伏せようとしていたのです。
ポールがあまりにも頑なにフラマン語への執着を見せると、サン・タラール伯爵は侮蔑の眼差しとともにこう吐き捨てます。「新法は氷山の一角だ。(中略)君は反カトリックだ。(中略)ドイツ皇帝に取り入るのか、ドイツ語を国語に?」
ポールの沈黙が全ての答えでした。この若く優秀で、しかし傲慢な政治家は、近い将来ドイツと手を結んでの軍備拡大を目論んでいたのです。挙句、カトリック教徒である母をないがしろにするかのように、ミサにおいてフラマン語を強要することを念頭に入れた画策であったことまでが明らかになり、険悪な雰囲気のままお開きとなりました。
しかし結局この議論が解決することはありませんでした。この日の晩、ポールが謎の死を遂げたからです。
ポール・デルラールは、若いながらも将来を期待されたベルギーの一大臣。その大臣が突然死したことを受けて検視尋問が開かれますが、所詮はお定まりのもの。病死という診断結果で滞りなく終わろうかという矢先、ヴィルジニー・メナールが異を唱えました。頑健そのものの彼が、心不全で死ぬはずがないと。
ヴィルジニーはその後、知人が警察官としての志の高さを評価していたポワロに、事件の真相解明を依頼します。こうしてポワロは、独自に調査に乗り出すことに。私立探偵としての第一歩を踏み出すことになるのです。

ミステリー 1-min

『チョコレートの箱』が収められた短編集『ポワロ登場』(早川書房、2004年7月)
Amazon商品ページより

◇文中引用した台詞は、ドラマ字幕版より。必要に応じて句読点を振ってあります。