ドラマ「チョコレートの箱」と死生観 

〜甘いものには毒がある?⑤

※このシリーズは物語の核心部分に触れていることがあります。作品を未読・未見の方はご注意ください。

殺人の暗喩として不眠症という設定を負わせるーーこれは原作にはない、ドラマヴァージョンのオリジナルです。ポールが亡くなった時の状況をポワロが回想形式で説明するとき(実際、彼はこの時はまだ関与していませんが)の台詞は、シンプルですが美しい文章です。

深夜 客たちが帰りーー
夫人は夜の祈祷を
屋敷は眠りについた。
だが不眠症のポールだけはーー
仕事をしに書斎へ下りた。
禁欲的なポールにも
逆らえぬものが二つあった、
出世欲とーー
チョコレートだ。

家中が寝静まった夜半にギロリとした目つきで自らのこめかみを揉み、仕事を続けるポールの映像は不眠症を匂わせているのと同時に、わずかでもあるのか妻を殺したことの良心の呵責に悩む姿として印象的です。演じるのは俳優ジェームス・クームズ。ハンサムな外見の中に、一筋縄ではいかない鬱屈した精神を押し隠している風貌が驚くほどポールにぴったりでした。
この場面で、ポワロはポールの弱点をふたつ指摘します。出世欲と、チョコレートだと。権力に魅せられたストイックな若い男がどうしても膝を折ってしまうものが、甘いチョコレートであるというイメージのギャップが強烈です。しかもこのイメージのギャップは、チョコレートの原形を知るとさらにインパクトが強くなります。
もともとチョコレートの原材料であるカカオの原産地は中南米といった熱帯地域、高い栄養価を持つことから薬として用いられることがあり、硬貨と同等の価値を持つものとして珍重されていました。現在のような嗜好品の形態を得るようになったのは、時代を経てコロンブスによってヨーロッパに持ち込まれ、加工されるようになってからです。貴族や王族が超高級品である砂糖を加えることで、私達にも馴染みのある「チョコレート」の形に変容していきました。特にココアはスペインで大いに持て囃された高級嗜好品で、17世紀にフランスと姻戚関係が結ばれたときにフランスに持ち込まれて普及しました(当時のココアは唐辛子などの香辛料を加えて作られていたという記録があり、チョコレート自体がスパイスと同じものとして扱われていたことがわかります)。
興味深い点はふたつ。チョコレートの学名は「Theobroma(テオブロマ)」、はギリシャ語で「神 (theos)の食べ物 (broma)」を意味しているということ。そして嗜好品として用いられる前のチョコレートは、媚薬として使われることが多かったことです。神を否定し、美しく聡明な妻に肉欲を感じなかった男の好物として、これ以上皮肉なものはありません。
さて、ポールが不眠症であったことは前述の通りですが、ベッドにつく描写を一切与えられなかった人物がもうひとりいます。ポールの母であり、ポールを殺したマダム・デルラールです(眠りについたと描写されているのは「屋敷の中」だけで、表現として夫人を装飾していません。そしてこの眠りが死を意味するなら、この文章が喚起させるイメージが大きく変わってきます)。
ドラマの冒頭部分で、彼女は寝室でひとり寝仕度を整えていましたが、ポールとマリアンヌの諍いのためきちんと祈りを捧げることができませんでした。結果、そのまま息子が嫁を殺す場面を目撃することになり、彼女にも「息子の殺人を容認した」という罪が課せられました。この罪を贖うには、祈りを捧げきれなかった神のために、教会をないがしろにしようとした息子を殺すしかない。ですがキリスト教では殺人は大罪、ましてや近親殺人はカインとアベルの神話を待つまでもなく恐ろしい罪です。己を救ってくれるはずの宗教が、己も息子も苦しめ続けるという苦しみの中苦渋に決断を下した彼女が、ポワロに訴える言葉はあまりに切実です。

神か息子かの選択を迫られる者は、私が最後であるよう祈ります

麻薬中毒のようにチョコレートだけは手放せなかったポール・デルラール。チョコレートに殺された愚かな男でした。

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月別画像はアガサ・クリスティのオフィシャル・ポートレート
Amazon内、ポワロ関連商品ページより