ドラマ「マスグレーヴ家の儀式書」と死生観 

〜眠れぬ夜はご用心②

※このシリーズは物語の核心部分に触れていることがあります。作品を未読・未見の方はご注意ください。

濃霧が広がる中にそびえ立つ巨大な樹。素性は知れないがギラつく眼と自尊心の高さが滲み出るひとりの男がその樹を背後に据え、はたと駆け出します。駆け込んだ先は厩の屋根裏。しかし男の意識はここにはあらず、眼裏には先ほどの巨木が浮かびます。ですがそこにひとつの影が。古めかしい衣装を身に纏った壮年の山羊髭の細面の男が馬に乗り、小さな袋を振り回しながらこちらに走ってきます。ふたりは目を合わせたまま、ついに山羊髭の男が袋をこちら側に投げつけたところで意識が戻ります。すると目の前には金髪の女がひとり(服の色からかなり若い女と知れます)。女は大きく脚を開き、娼婦もかくやとばかりに裾を捲り上げて男を挑発します。
慣れた様子のふたりは瞬く間に情事にふけり始めますが、そこにまた別の女がやってきます。黒髪の神経質そうな顔立ちの女はふたりの様子を盗み見るやいなや、怒りに震えて厩を飛び出します。この間約2分。台詞は誰にも一言も与えられていないのにも関わらず、このドラマの舞台で起こる複雑な男女の関係を見事に描写しています。
さて、場所はのどかな田舎道に変わります。カレッジ時代の学友サー・レジナルド・マスグレーブからの招待を受け、相棒ワトスン(*演:エドワード・ハードウィック)とともにサセックスにやってきたホームズ。珍しく風邪をこじらせたホームズは、ようやくベーカー街を連れ出すことに成功して上機嫌なワトスンとは反対に咳と寒気にイライラしながら馬車に揺られていました。季節は描写されていませんが、天気が良く過ごしやすそうな風景が印象的なサセックス(もともとサセックスはイギリスの南西部に位置する、歴史的面影を色濃く残している古い都市)にいるにも関わらず、ホームズは厚手のウールの毛布を2枚重ねにしてもなお寒いと言って文句ばかり。このシリーズのふたりは距離感がかなり近く、一匹狼で仕事をしているホームズが心の深い部分まで気を許せる相手としてワトスンを非常に信頼し、甘えているようなそぶりさえあります。軽妙なふたりの会話は聞いていてこちらがほっこりするくらいです(実際ホームズが旧友の誘いを受けたのは、ベイカー街の部屋を整理しろとワトスンが再三僕をせっついたからだと主張しています)。
ワトスンが「英国屈指の旧家の倅」と言う通りマスグレーブの家系は実に古く、その祖先は清教徒革命で斬首されたチャールズ一世の側に仕えていたというのですから驚きです。そんな彼のことをホームズは散々に扱き下ろしますが、その内容たるや、

学生の間では不人気だったが
彼の高慢さはーー
小心を隠す努力のようだった
彼の青白く鋭い顔や
頭の動かし方からは
決まって灰色のアーチ道や
封建時代の遺物を
連想したものだよ

という辛辣極まりないもの。
ですが旧友の屋敷には、巷では名の知れた名物執事がいました。教師の職を失って執事の地位に甘んじてはいますが、教養があり数カ国語を操り、しかも多くの楽器をこなすことができるというこの男(ホームズ曰く「主人より数段、頭がいい」…)は、屋敷に到着したワトスンに屋敷の歴史的価値やマスグレーブ家の出自を澱みなく説明していきます。執事の名前はリチャード・ブラントン。冒頭の怪しい男の正体は、まさにこの執事でした。

forefinger7-min
forefinger5-min

 

上:ジェレミー・ブレットとデビッド・ハーグ、下:ジェレミー・ブレットとエドワード・ハードウィック
Jeremyのことが知りたくて(ジェレミー・ブレットのファンサイト)より

◇文中引用した台詞は、ドラマ字幕版より。吹替版を引用の場合はその旨を明記します。必要に応じて句読点を振ります。

ドラマ「マスグレーブ家の儀式書」はグラナダ版シリーズ「シャーロック・ホームズの冒険」中Season3Episode3に該当します。前シーズン最終話でモリアーティ教授と決闘しライヘンバッハの滝壺に落ちたホームズ(Season2Episode13「最後の事件」)がベイカー街に帰還した後のエピソードです。このシーズンの切り替わりでワトスン役の俳優が事情により変更しており、Season1Episode1から「最後の事件」まではデビッド・バークが演じていました。