*番外編*デュ・バリー夫人の運命 

〜首なし国王の血の呪い③

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エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン「デュ・バリー夫人の肖像画」
1781年、個人蔵

さて、前回の記事を思い出してください。肖像画「狩場のチャールズ一世」の主役はイングランド・スコットランド国王です。当然ナショナル・ポートレート・ギャラリーあたりが所蔵していそうなものですが、なんの因果かこの絵は現在ルーブル美術館が所蔵しています。その理由も、やはり革命にありました。
時は18世紀後半、舞台はこれまた血生臭いフランス革命です。革命が勃発する直前、この絵を持っていたのはフランス国王ルイ十五世の*公式寵姫デュ・バリー夫人でした。国内が本格的に危険な状態になる(貴族とわかっただけで処刑される!)前にしっかりと国外に逃亡していた彼女は、何を思ったか革命最中の時に再び王宮に戻り、捕らえられて処刑されるというなんとも波乱万丈な最期を迎えた女性です。
アントワネットと対立していたことでも知られるデュ・バリー夫人。宮廷という伏魔殿での敵対する女同士の争いは熾烈きわまるものだった(ただでさえ、アントワネットはオーストリア・ハプスブルク家の皇女、デュ・バリー夫人は一庶民からの成り上がりという身分的な違いがあったため)ようですが、このふたりにはある共通点がありました。ギロチンです。
フランス革命時、多くの王侯貴族の首を落とし続けたギロチン(斬首刑は王侯貴族、絞首刑は庶民が受けるものと決まっていました)は、「受刑者に苦痛を与えることなく刑を執行することのできるように」と提案したジョゼフ・ギヨタンの名にちなんだ処刑道具で、それまで多くの受刑者が苦しみに呻いていた斧による斬首刑に替わるものとして発明されました。斧による斬首は首斬り役人の手腕の善し悪しによって成否が大きく別れる上にかなの大仕事になるため、痛みを感じる前にサクサク首を落とせるギロチンの登場はまさに革命的でした。恐ろしい皮肉ですが、人道的処刑道具ギロチンの登場により、フランス革命時の処刑人数は斧での斬首刑の時より爆発的に増えることとなり、パリではギロチン刑が娯楽のひとつとして定着するほどでした。
ギロチン台に首の乗った人間は、ある人物をのぞいて誰一人抵抗しませんでした。それは、王侯貴族としての誇り高い処刑方法であり、彼らにとって誇りは命より大切なものだったからです。
抵抗したのはただ一人、このデュ・バリー夫人だけでした。ギロチン台の周りをひたすら逃げ回り泣きながら命乞いをするあまり、最初の処刑人は手を下せず二番手に交代せざるを得ないほどだったといいます。この時の彼女のさまはあまりにも有名で「無様極まりない」と数多の歴史書が厳しく断じていますが、もともと彼女は一般市民の出あり、何より人間ならば恐れ慄くのが当然。彼女のように命乞いをする貴族たちがもっといたならば、ギロチンで命を落とす人がもっと少なかったのではないかと言う研究者も出てきており、近年はデュ・バリー夫人を違った側面から見つめる必要があるように思います。
清教徒革命で首を切られたチャールズ一世と、フランス革命で断頭台の露と消えたデュ・バリー夫人。このふたりを結びつけるのは、一本の細い糸。用心深く手繰った先は、フランス革命のさらに200年前のイギリスに辿り着きますーー。

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王侯貴族の享楽の場であり、酒池肉林の場であり、跳梁跋扈の場でもあったヴェルサイユ宮殿

*内実共に国王に最も近づくことができる、権力を持った公妾。王妃よりも権力を誇ることができる代わりに、王が失策を犯した時はその罪を贖うために全ての罪を背負って失脚させられる恐ろしいポジションですが、庶民の女が成り上がることのできる唯一にして最大の地位です。
デュ・バリー夫人の本名は本名ジャンヌ・ベキュ。シャンパーニュ地方の貧しい家の私生児でしたが、職業を転々とする中高級娼婦斡旋を生業にしていたジャン=バティスト・デュ・バリーの目に止まり、愛人となったことで公式寵姫の座を射止める第一歩を踏み出しました。