*番外編*メアリー・ステュアートの運命・前編(下) 

〜首なし国王の血の呪い⑤

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作者不詳「女王エリザベス一世」
1575年、ナショナル・ポートレート・ギャラリー(英)

メアリーがフランスに渡って10年が経った頃、イングランドとの関係性に亀裂が走ります。
イングランドの政権交代劇は非常に過酷な状況が続いていました。男児に固執していたヘンリー八世による3度に渡る王妃との離婚と2度の処刑、離婚により長女メアリー(後年のプロテスタント弾圧事件により「ブラッディ・メアリー」の異名をとります)と次女エリザベス(言わずもがな後年のエリザベス一世)は共に一時は庶子(王位継承権を持たない身分)に格下げされるものの、ヘンリーの6番目にして最後の王妃キャサリン・パーの尽力により再び王位継承権が揺り戻されます。ヘンリーの死後王冠はエドワード六世に渡りましたが病弱のため即位後6年・15歳の若さで死去、政権の脆弱さにかこつけて親族に無理矢理まつり上げられたレディー・ジェーン・グレイは9日間しか王座につくことができず(裏で手を引いていた親族が謀反を企てていたことが判明したため夫と共に処刑され「9日間の女王」として後世に名を残しました)、ようやく王座についたメアリー一世は強国スペインのフェリペ二世(この時代の実質No.1)と結婚しながらも子どもを残すことができず死去、エリザベスの頭上に王冠が据え置かれたのは25歳の時でした。メアリー・ステュアートとは雲泥の差、エリザベスは過酷な荒波を清濁合わせ飲みながら生き延び、ようやく正統な権利を手に入れたのです。
にも関わらず、メアリー一世が死去するやいなや、アンリ二世が「エリザベスは庶子であるがゆえに王位継承権はなく、ヘンリー7世の曽孫メアリー・ステュアートにこそ正統な権利があると」主張したのです(このための息子との婚約取付です)。この一件により、エリザベスは9歳下の遠縁の従姉妹を警戒するようになります。
その1年後、メアリー・ステュアートの運命は大きく動き出します。
アンリ二世が戯れに催した馬上槍試合で事故死(相手の槍の先が折れ、それが国王の目を抉ったという…)、直後に皇太子フランソワが国王フランソワ二世として即位し、王妃となったのがメアリー・ステュアートの最後のハイライトです。その後は驚くほどの速さで転がり落ちていきます。身体が弱い夫との間に子どもを残せぬまま、王は即位からわずか1年で死去。世継ぎのいない他国の王妃に価値はなく、政権は瞬く間に前国王アンリ二世の王妃に渡り、メアリーはスコットランドに戻らざるを得なくなるのです。
若き王妃は、いつ躓いたのか。きっかけは色々とあったはずですが、間違いないのは姑の内実を見誤ったことです。イタリアの商人の家から輿入れしたとして、生まれが卑しく外見も醜いと、メアリーは亡きアンリ二世の妃に対してそれはそれは侮蔑的な態度をとり続けました。史実を知っていたら、メアリーの未来は少しは違ったものになったのでしょうか?この凡庸の塊のような女こそが、マキャベリの『君主論』を学んだ、フランス国土を血に染める「聖バルテレミーの虐殺」(フランスのカトリック教徒に夜プロテスタント教徒の弾圧)の陰の首謀者とさえ言われる、「悪女」の代表としてその名を残すカトリーヌ・ド・メディシスだと知っていたならば、あるいは…。

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フランソワ・クルーエ「カトリーヌ・ド・メディシスの肖像」
1560年、カルナヴァレ美術館(仏)

*参考文献:中野京子『残酷な王と悲しみの王妃』集英社e文庫、2014年7月(同年前月発行の同名書籍第3刷底本)